子育ての前提(ひよこ02)
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| 私達が子育てをする上で、どのような前提に立って子供を育てるのかがとても大切です。前提とは、子供の存在をどのように理解するか、ということです。目の前にいる子供を一人の人間として、その子供の存在理由、存在の価値をどのように考えるのか、それが大切です。 いきなり深刻な話ですが、ある青年が自殺をしました。彼の遺書には、「死ぬ意味はないけれども、生きる意味もないから死んでみる」と書かれていました。皆さんがもしこの青年から、「生きる意味は何ですか?」と尋ねられたら何と答えることが出来ますか? 私たちの子育ての前提とは、この質問にどう答えるか、ということなのです。我が子に対して、自分が存在する意味をどのように伝えることが出来るでしょうか? |
二つの価値観 |
現在、この世界の成り立ち、人間の存在を説明するものは、大きく分けて二つしかありません。 | 一つは神が全てを造られたという創造論です。
「はじめに神は天と地を創造された」
もう一つは、この世界は偶然に進化して出来たという「進化論」です。 | 私たちの子育が、この両者のどちらに立つのか? 創造論と進化論をのどちらを前提にするかによって、その子育ての仕方は大きく違ってきます。 それでは、この両者の違いを明確にして、いきましょう。
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進化論 |
まず進化論ですが、この説はあくまでも仮説であり、いまだ証明されていません。しかし特に、日本で教育を受けたものは、進化論があたかも真実であるかのようなイメージを持たされます。それほど日本は進化論先進国なのです。上野の科学博物館に行きますと、一階、二階と階ごとが進化の過程の通りに作られています。ここまで進化論を支持する理由は何なのでしょううか?
進化論は、いまだ証明されていない仮説に過ぎません。そのような確かでないものに基づいて、私たちの存在の説明がされてしまうことに大きな問題を感じます。 | 進化論のいくつかの特徴を説明しましょう。 まず「偶然」です。
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進化論の特徴は「偶然」ということです。全ての存在には意図されたものはなく偶然なのです。ですからその存在は、無意味、無目的となります。 | たまたまアミノ酸からアメーバーになり、ミトコンドリアになり、それが水中生物になり、たまたま陸にあがった魚が生き延びて、たまたま両生類になり、たまたま哺乳類になり、猿になり、たまたま人間になった、ということです。 すべてがたまたま偶然なのです。そうなると今の私という存在も、たまたま今存在し、たまたま死んでいくということになります。これでは、前述の青年の心の叫びに答えることが出来ません。
昔ソ連において次のような拷問が行われていたそうです。囚人に穴を掘らせます。その穴から出た土で同じ穴を埋めさせます。また同じ穴を掘らせ、同じ土で埋め戻します。もう一つは、バケツの水を隣のバケツに移します。その水を元のバケツに戻します。またその水を隣のバケツに移します。これを延々と繰り返します。囚人はどうなるでしょうか? 気が狂ってしまうそうです。これは拷問なのです。 | つまり人間にとって、意味の無いこと、目的の無いことを繰り返すことは、拷問に等しい苦しみなのです。 もし無意味、無目的な人生を歩んでいたら、やがて心が病むのは当然といえば当然なのです。
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目の前にいる我が子は、たまたま自分の子供なのでしょうか? それは必然ではなく、偶然なのでしょうか? | このような価値観で子供を育てると、不安で一杯になります。子育てには、実に予期せぬこと、驚くことが多々あります。でもその一つ一つに意味を見出すことが出来るから安心が出来るのです。この子供の将来に希望を見るからこそ、子育ての悩みを乗り越えることが出来るのです。 全てが偶然であり、存在の意味も目的もないとするなら、一体どのようにして我が子に、生きる喜びと希望を伝えることが出来るでしょうか?
もう一つの特徴は「優劣」ということです。、進化論は、より優れているものが生き残り、劣っているものは退化すると言います。進化とは、より優れたものへと変化することです。 | この思想の影響のもとに、民族浄化などという言葉が戦争中に使われました。民族的な優秀さを保つために、劣っている者たち、違う民族の者や、身体の障害者、精神病者などは、全て抹殺された歴史がありました。しかし、それは進化論的な価値観から言えば、当然のことになります。劣っているものの存在は、存在する価値がないのです。やがて淘汰され歴史から消えていくのですから。 ここで大きな問題となるのは、優劣をどこで計るかということです。その線引きは誰が決めるのか? この価値観が日本の高度成長期を支える大きな役割を果たしました。特に教育の面においては、偏差値という数字によって、その優劣を計りました。常に数字というものが計りとして使用され、常に前年比何%という計りをもって業績が計られていきました。人間の価値も、数字で計られました。 常に周囲との比較の中で、自分の存在が計られ、その価値が決定されてしまいます。「落ちこぼれ」などという表現があること自体、その価値観を現しています。
この価値観に基づく生き方の問題点は、優劣の比較には終わりがないということです。常に競争し続けないと、自分の存在が淘汰されるのですから命がけです。そんな中で、もう走れない、もう頑張れない、という悲鳴があちらこちらから聞こえてきます。 | そんな価値観に基づいて子育てが行われると、常に周囲との比較の中に我が子を置くことになります。少しでも他の子供より速いと安心し、遅いと心配になります。周囲との比較の中で、安心したり、焦ったりします。ですから安定がありません。 子供は親に受け入れられたいと思いますから、親の価値観に合わせて、その期待に応えようと頑張ります。しかし、比較の世界に終わりがありません。ありのままを受け入れられることがない子供は、やがて限界に達して、もう頑張れないと心や身体が叫び始めます。
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さて、それでは創造論に基づいた子育てについて考えてみましょう。
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創造論 |
創造論とは、文字通り神によって世界が造られたということです。「人は神に造られたものである」ということが、この子育ての大前提です。
しかし、聖書は最初から、「神が天と地を創造された」と語っているのです。またヨハネ福音書一章三節には「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」と語っています。人間に関しても「神は人を、ご自身のかたちに創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記二章二七節)と語っています。 | この世界も、人間も、神に造られたものです。偶然ではないということです。 ある学者が述べていました。人間が偶然に出来る確立は、「ゴミの埋め立て場に竜巻が起こり、たまたま巻き上げられた物がぶつかったりしながら、終わって見たらコンピューターが一台出来ていた。」ということだと。 つまり有り得ないということです。今、皆さんの周囲を見てください。そこにあるもので偶然に存在する物があるでしょうか? 目の前にある机、椅子、ノート、ボールペン…。ノートなど実に単純なつくりですね。でも、ゴミの埋め立て場に竜巻が起こって、たまたま白紙の紙があり、同じサイズで、同じ紙質で、たまたま50枚あり、それがたまたまぶつかって、たまたまそこに接着剤があり、そのふたが開いて、たまたま紙の端について、そこにノートが完成していた、ということです。そんなことは何億年かかっても出来ません。ましてや、この人間というどんな精密機械もかなわない、この人間の身体、プラス心も含めて、偶然に出来るわけがないのです。
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創造論の特徴は、まず「必然」です。偶然ではありません。人間が作ったものには、必ず意味と目的があります。前述のノートもペンも、すべてそうです。 | 神が人を造ったということは、人の存在には意味と目的があるということです。 まず、その存在の意味、意義と言った方がいいかもしれません。人間の存在の意義は、「愛される存在」ということです。 「神は愛です」これは聖書の中心メッセージです。神は愛そのものです。愛とは名詞ではなく、動詞だと言われます。確かに愛があっても、愛する対象がいなければ、それは愛として認知されません。神は、愛する対象として人間を造られたのです。 ですから、人間は愛されないと生きていけないのです。もともとが愛されるべき存在として造られたからです。
私たちの子育ても、子供を愛することが全てです。私たちは我が子に向かって「生まれてくれてありがとう。私たちの子供に生まれてくれて嬉しい。愛しているよ。」と確信をもって声をかけることが出来るのです。なぜなら、我が子がそこに存在しているのは、偶然ではなく、必然だからです。 | さらに子供の人生に目的があることを信じることが出来ます。それによって、子供の人生に起こるすべてのことに意味を見出すことが出来るのです。子供の人生にとって全てのことが益になると信じることが出来るのは、子供の人生には目的があるからなのです。 基本的に、子供は成長するように神に造られているのです。親から愛され、守られ、期待されている子供は、健康的に成長します。
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神の創造に立って子供を育てるということは、我が子の存在は、愛され、意義がり、目的があるということを信じて育てることなのです。 また創造論は、オンリーワンの価値観です。優劣でも比較でもありません。神は比較をしません。一人一人の顔が違うように、それぞれに個性を与え、ユニークな存在として造ってくださいました。 私も長い間、人の目を気にしながら、常に人の評価を意識しながら生きてきました。人にどう思われるかが私の人生のテーマでした。私は、自分を失い、他人が私の人生の主人でした。 そんな私がある時、次の聖書の言葉に出会いました。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 この時、初めて人の目ではなく、神の目を意識しました。すると、神は、こんな私をも、かけがえのない宝物として見ていてくださる。愛に満ちた眼差しを感じました。私は、劣等感の塊でした。自分が嫌いで、セルフイメージは相当に低いものでした。しかし、神は、そんな私を「高価で尊い、愛している」と言ってくださる。神の目を意識した時、私は人の目から解放されました。その時、私は自分を取り戻しました。本来の自分の人生を生き始めたのです。
我が子を見るときに、世間の目や、周囲との比較ではない、我が子だけをじっと見つめてあげる。親である自分自身が、もしそんな扱いを受けたら、どれだけ嬉しいでしょうね。神が神の子である自分を見ているように、私も我が子を見ることが出来たら素晴らしいですね。 | 私は、長男が生まれたときのことが忘れられません。新生児室に、他の新生児と一緒に並べられていました。窓ガラス越しに初めての我が子をじっと見ていました。言葉に表現できない暖かい気持ち、厳粛な気持ちになりました。じっと見つめていると、我が子が目の中に入ってきました。そんな感覚でした。「目の中に入れても痛くない」これは本当だと実感しました。
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神は、私たち一人一人をそれこそ「目に入れても痛くない」ほどに見つめ、愛していてくださいます。 | ましてや、優劣などありません。むしろ進化論的な価値観においては劣っているとみなされる者の中に、神の力を現してくださいます。 創造論と進化論、どちらの考え方に立つかで、子育ては大きく違ってきます。私たちは普段は進化論など意識してはいませんが、、無意識の中に、あるいは社会全体の価値観の中に、しっかりと入っています。 だからこそ、創造論にしっかり立って歩みましょう。我が子の存在は、偶然ではありません。その存在は必然です。自分がこの子の親であることも必然です。ですから、神は意味と目的をもって、この親子を導いてくださいます。 かけがえのない、この世でたった一人の存在である我が子、そして親である自分自身もそうなのです。私たちは、神のかたちに造られた、神の最高傑作品なのです。 文:関 真士
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