主体性の確立(ひよこ07)
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| さて、子供の成長には、段階があることを述べました。さらにその段階を踏んでいくスピードも一人一人みんな違います。大人から見て、ゆっくりな子供、早い子供、色々です。 私の三人目の子供は、全てにおいて早かったです。それは上の子を見ているからだと思うのですが、四人目の子供はもっと早くなると思っていたのですが、意外にも四人の中で、一番ゆっくりなのです。 同じ親に育てられても、双子でも、その性格は違うように、成長のスピードも皆違うのですね。 周囲と比較しないで、我が子をしっかりみつめ、その子供の成長を見守ってあげることは素晴らしいことです。 |
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この三つの段階は、子供の成長にとってベースになるとても大切な時期です。 主体性確立期 |
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子供は、この時期から幼稚園に入り始め、そこで社会性を身に付け始めるのですが、主体性が養われることによって正しい社会性を持つことが出来るようになります。 | 正しい社会性とは、一人一人が人格的に生き、互いがその人格を尊重し合えるという社会です。 シンプルに表現すると、「私はこのように考えます。あなたはどのように考えますか? それでは私たちはどのようにしましょうか?」と言えるということです。
人格的自立が出来ていないと、「私とあなた」が分裂してしまいます。たとえば、「私は」と言えずに、「あなたが、あの人が、みんなが、」という具合に主語が自分ではないのです。あるいは、「私は」だけで、他者の考えを聞くことが出来ないのです。結果的に「私たちは」という共に生きるということが出来ません。 | 「私は」だけに生きる人。「あなたは」だけに生きる人。
前者の場合は、その自分勝手さに周りが傷つきます。後者の場合は本当の自分を抑圧しますから自分が傷つきます。
先に学んだ「人格」ということを思い出していただきたいと思います。人格とは「自分で考え、判断し、選ぶという主体性のことです」つまり、この七歳までに、人格的に生きることの必要の基礎が出来るということです。
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| 与える幸い
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(使徒20:35)
前回は、自分が十分に満足することの大切さを話しました。今回は、子供が十分に満足しているという前提で先に進みます。
マザー・テレサは、「人間にとって最も不幸なことは、誰からも必要とされないことだ」と語りました。 | 人にとって不幸なことは、誰にも与えることが出来ない、とういことです。与える内容は、もちろん物質や金銭よりも、精神面が大きいと思います。私たちは、自分の与えた何かが、相手を生かし、喜びを与え、幸せを与えるとき、自分はもっと幸せなんだと思います。 子供たちが、少ないお小遣いの中から、誕生日や母の日、父の日にプレゼンと買ってくれたりすると、本当に嬉しいものですが。そこには子供たちの誇らしく、喜びに満ちた顔があります。
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友達同士の中で、一人だけ皆の持ってるおもちゃを持っていない子供がいます。その子のために、自分のおもちゃを貸してあげている、その時の子供の幸せそうな顔。 | 我が家の子供たちも、普段は取り合いをします。先日も、日本から頂いてアイスクリームを一人一本づつ冷凍庫に入れているわけですが、外出している次男から電話があって、「あのアイスは、絶対に食べさせないでね。僕のだからね」と念を押してきました。彼にとっては大変に重要なことなのです。 一番困るのが、四人分ないお土産です。椅子取りゲームのような激しい争奪戦が始まります。心が満足しているからと言って、いつも分け与えることが出来るわけではありません。人間の欲には終わりがないのも確かです。子供の時から仙人のように欲望から自由になることは出来ませんし、そんな必要はありません。 ただ、この時期に子供が与えることが出来る時が何度かあるはずです。その時の子供の満足そうな顔を見逃さないようにしましょう。子供は、自分が得た時に感じた喜びとは、また異質な喜びを感じているのです。
人間は、喜びを感じることは大好きです。「しなければならない」と言われなくても、喜びのあるところにには自然と行動が生じてきます。 | とても大切なことですが・・・ まず「今**ちゃんに上げることが出来て、今どんな気持ち?」と聴いてあげるのです。子供はうまく自分の感情を言葉で表現できなかもしれません。そんな時は親が補ってあげて、「なんだか心がいい気持ちでしょう」と、パパもママも、とても嬉しいよ」とその幸福感を共に共有することなのです。 行動を評価するのではなく、その感情を大切にしてあげるのです。子供が一回でも多く、この「与える喜び」という感情を持って欲しいものです。その喜びの経験が、後に残ります。 「受けるよりも、与える方が幸いだ」という体験は、その後の人生の価値観に大きな影響を与えます。
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| 親子逆転現象
ここで「親子逆転現象」について考えておきましょう。一言で言うと、早く大人になり過ぎた子供たち、ということです。 | 人間の中には、三つの部分、すなわち大人の部分、親の部分、子供の部分があるといわれます。それぞれが状況、環境によって無意識の中で使い分けます。会社では大人としての自分、家に帰れば親のとしての自分、自分の親の前では子供の自分が出るでしょう。しかし、例えば子供に対して、大人の自分が接していることもあり、また子供の自分が子供に接していることもあります。 いずれにしても、誰の中にもある子供の部分、これは最も本音に近い自分でもあります。この部分がもし欠落している、あるいは小さいと実に味気のない人生となります。
ある三十代の女性の話です。 | この方は、長女で小学校四先生の時に、お母さんが結核で入院してしまいました。しかたなく、彼女は妹、弟の面倒のために、友達と遊ぶこともできなくなり、家事を一手に引き受けて頑張りました。周囲の大人も、「なんて偉い子供だろう」と彼女を賞賛しました。 この時、彼女の子供としての自分が終わりました。当然、彼女は友達と遊びたかったし、クラブ活動もしたいし、わがままもいいたし、でも彼女にはそれが許されませんでした。周囲の賞賛は、彼女をさらに追い詰めました。 大人になった彼女は、実によく人のために働き尽くすのですが、自分が楽しむこと、人から助けてもらうことが出来ません。与える一方です。でもそこに喜びがあるかと言うとありません。むしろ心のどこかで怒っています。それが周りにも伝わります。彼女はやがて心が枯渇したように、心のバランスを失ってしまいました。
この方も三十代の女性です。 | この方のお父さんは、いわゆる頼りないお父さんです。お母さんの方がやり手で、強いタイプです。彼女は、いつも母親から父親の愚痴を聞かされていました。ですから、父親はダメな人間だと心にインプットされてしまいました。 家は自営業でしたので、その手伝いをするうちに、父親の仕事にまで手が伸びて、いつの間にかか、父親に代わって店の仕事をするようになりました。小学生の時です。 周囲の大人は、よく働く子供だ、と言って賞賛します。その賞賛がよけいに、彼女をやる気にさせます。しかし、そのやる気の根底にある思いは、お父さんに対する裁きです。お父さんじゃだめだ、私がやらなければ、という思いです。実際に子供がどこまで出来たのかは分かりません。でも本人は自分が親に代わって仕事をしていると思い込んでいます。 大人になり、仕事が速い、優秀な人になりました。人のお世話をして、助けるのが得意です。でも、どこかにイライラがあります。お父さんに対する裁きの思いが心の深い所にしっかりとあるからです。喜びから行動しているのではありません。 彼女は、なかなか結婚することが出来ません。 彼女のようなタイプには、えてして依存タイプの頼りない男性が寄ってくるものです。しかし、それは彼女にとって最も嫌なお父さんのような人なのです。 彼女が求めている、お父さんのようでない力強い男性は、彼女に近寄ってこないのです。
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| 子供は子供
どちらのケースも、自分から子供であることをやめたわけではありません。そうせざるを得なかったのです。しかし、失われた小さな子供が、自分の内側で叫んでいるのです。「もっと遊びたかった、。もっと甘えたかった。もっと守って欲しかった」と。それが許されなかったことへの怒りが内から流れ出てしまいます。 | 子供がこの時期に子供でいられるということは、とても大切なことなのです。普段は、争奪戦を繰り広げながらも、与えることの出来た一点を見出して、そこで経験している喜びを共有する、それでいいのです。 子供らしい子供って、どんな子供ですか?
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子供は甘えます。 | 子供は大きな声で泣いたり、笑ったりします。 子供は何度でも失敗できます。 子供は遊ぶのが仕事です。 子供は喧嘩します。 子供は空気を読みません。 子供は本当のことを言います。 大人には出来ないことです。でも子供には出来るのです。それが子供の特権です。
ほめて育てることは大切です。しかし、間違った価値観に基づく賞賛は、逆に相手を追い詰めることもあります。(昔「ほめ殺し」というのがありました) | ほめることと、おだてることは違います。ほめることは正しい価値観に基づき、事実を賞賛します。 しかしおだてることは、親のレールに乗せるために、事実であろうとなかろうと、賞賛することによってコントロールすることです。これはいけません。 さて、早く大人になり過ぎた子供たちは、その後どうしたらいいのでしょうか? 子供時代を取り戻すことが出来るのでしょうか?
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聖書には次のように約束されています。 | 「その名(イエス・キリスト)を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになる。」
どんなに年齢的には大人であっても、私たちは神の子供になれる、というのです。この時に、子供として自分を取り戻すことが出来ます。私にとって、この神の約束は、どれだけ素晴らしいものか、言葉の表現を超えてしまいます。 文:関 真士
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