HCC ひよこ11

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躾けと愛すること(ひよこ11)

 さて、子供の人格は、胎児の時から潜在的に存在しています。その人格は母親とのヘソの緒が切られた時から、芽を出したかのようにして成長を始めます。
 ただ寝ているだけから、目も焦点が合うようになり、お座りをし、手でいろんなものを掴むようになります。長男が寝返りをした時の感動は今でも覚えています。
 ハイハイが始まり、つかまり立ちをしたりして、もう直ぐに歩き始めます。最初は転んでばかりです。この頃には生傷が絶えません。ひやひやすることが多くなります。何でも口に入れてしまい、口の中を砂利で一杯なんていうこともありました。いたずらもエスカレートしてきます。トイレットペーパーを全部ほどいてしまうのは、いたずらの通過儀礼のようなものです。せっかくたたんで入れた服を、引き出しから全部出してしまったり、予想を超えたような、天才的な発想のいたずらをしてくれます。
 いたずらなどの行動と平行して、心もどんどん成長していきます。潜在的であった人格が、芽を出して勢いよく伸びてきます。
写真・ひよこ


 二、三歳で第一次反抗期に入りますが、この反抗期というのは、大変否定的な表現です。この時期は、反抗ではなく、人格が勢い良く伸びている喜ばしい時期なのです。
 しかし親にとっては、試みの時でもあり「反抗」と感じるわけです。
 子育ては大変だと、髪を振り乱している方々、「子供がいうことをきかない。口答えをする。走り回る、しゃべりまくる、大声を出す。」
 そんな中におられる方々、この時期は回避することは出来ません。覚悟を決めるしかありません。この状況がまるで永遠に続くかのような心境になりますが、あくまで一時期のことです。この時期に子供としっかりと向き合うことで、後で楽にになりますから。
 逆に「うちの子は、何でもすぐにハイと言うことを聞く良い子だ」という方、ちょっと考えみましょう。

躾けとは?

 さて今回は、「しつけ」について考えみましょう。
 躾とは、何でしょうか? 日本語では身を美しくすると書きます。私は茶道をたしなんでいますが、茶道では、何度も同じ所作を繰り返します。それは知識として覚えるということよりも、、身体で覚えることを大切としているからです。
 それは所作を正しく行うということ自体が目的ではないからです。一つ一つの所作はすべて目の前のお客へのもてなしを目的としているのです。。
 その所作の美しさは、見るものに安心感を与え、自分は大切にされていると感じさせるのです。このような所作は、ただ頭で覚えた知識からは表現され得ません。その所作が自分のものとなっていなければならないのです。
 躾とは、何度も繰り返し行うことによって、そこに美しさを求めるのですが、それは共に生きている周りの者への配慮として表現されるものです。
 つい最近、日本に行きました。母と電車に乗りました。優先席の前に立っていたのですが、六つの席の三つは若者が座っていましたが、彼らは見事に眠り始めてしまいました。
 混雑した駅で走り回っている子供を注意しない親、かと思うとヒステリックに子供を脅すようにして静かにさせようとしている親たち。
 躾けとは何なのか? 何のために躾けるのか?
 聖書の教える躾けとは、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい。」という生き方を繰り返し教えることです。その生き方が、完全に自分のものとなって、もはや無意識のようにして当たり前のこととして行えるようになることが躾けの目指すところです。

亀のようにゆっくりと何度も躾けます

他人に迷惑を
かけない?

 それでは、躾けるためには、どのような手段を用いてもよいのでしょうか? 虐待する親は、多くの場合、それは躾けのためであったと言います。躾けと称して、子供を虐待することなど論外なことです。
 しかし例えば、躾けの金言のような「他人に迷惑をかけない」という言葉も、気をつけなければなりません。
 あるお母さんが、「私は息子に、他人に迷惑をかけていけなと常日頃言ってきました。」と自慢するように言いました。しかし横に座っている子供は心を病んで苦しんでいるのです。
 その母親は、子供の人格よりも、他人の人格を優先させているのです。他人のために自分を犠牲にすることを求めているのです。
 目の前で苦しんでいる子供は、「じゃあ、他人とボクとどちらが大事なの?」と心の中で訴えます。そこには、自分を生きることよりも、世間を気にしながら、自分の人格を抑圧して生きることが求められているのです。
 躾けとは、決して子供の人格を抑圧することではないのです。まったく逆に、子供の人格が豊かに育つことによって、子供は他者の人格を大切にすることを学んでいくのです。
 躾けとは、親の言うことにハイと言わせることではありません。

チームワークが大事です

 今私の次男はサッカーチームで頑張っています。サッカーはチームプレイです。個人がどんなに上手でも、それで勝てるわけではありません。廻りの選手とのチームワークが必要です。
 この選手にどのようなボールを蹴ったらプレーしやすいかということを常に考えながらプレーをするわけです。その意味ではスポーツ、特にチームプレーは、躾けの上でとても有益です。
 しかし、このサッカーチームのコーチングの良い所は、この時期(十才)は、まだそのような配慮は必要ないというのです。純粋にボールを追いかけて、サッカーの楽しさを体験して欲しいというのです。それが将来のチームプレーに結びついて行くのです。
 同じように、まず自分の人格が尊重されるなら、他人の人格も尊重できるようになってきます。それがないまま、他人のためを考えるということは、躾と称してますます子供の人格を抑圧することになってしまいます。
 聖書の教えに「自分にしてもらいたいことを、他者にもしなさい」とあります。これも躾けの本質を言い表している言葉だと思います。
 まず、自分にしもらいたいことが十分に満たされて、はじめて他者のことを考えることが出来ます。そして自分が嬉しい体験、不快の体験を通して、他者への配慮が分かってきます。自分がそのような体験がなくて、他者の気持ちを思いやることは出来ません。自分が満たされて初めて他者の求めに応えることが出来るのです。
 「他人に迷惑をかけない」ということは大切なことですが、その言葉によって子供の人格を抑圧するような使い方をしてはいけませんね。

聖書

窓際の
トットちゃん

 ずいぶん前に『窓際のトットちゃん』という本が大ベストセラーになりました。この七五〇万部という部数はいまだ破られていない記録だそうです。この本を書いたのは女優の黒柳徹子さんです。
 彼女は小学校一年生で学校を退学になってしまいました。開閉できる机の扉を授業中に延々と開け閉めを繰り返し。授業中に窓際に立ったまま、外の鳥と会話しているのです。
 今なら間違いなく「学習障害児」として、しかるべき治療を受けるように勧められているでしょう。
 しかし、この徹子さんのお母さんは、彼女がなぜ扉の開閉を繰り返すのか、鳥と話すのか、その理由をよく聴いてあげます。そして受け入れます。扉が開閉する様子、それが小学校一年生になったばかりの娘にとって、どれだけ興味をそそる対象となるのか? 娘の気持ちに心から共感するのです。
 徹子さんは、仕方なく『ともえ学園』という私立の学校に転校します。この校長先生は、徹子さんに初めて会ったとき、母親を先に家に帰してから、徹子さんに「何でも話してごらん」と言います。徹子さんは、まずそれに大感激します。そして四時間に亘って話し続けたそうです。校長先生は、目線を合わせて聴いてくださいました。
 それから戦争で疎開するまで、徹子さんはこの学園で実に伸び伸びと豊かな学園生活を送るのです。

ゆっくりと話しを聞きます

 そこで徹子さんは、多くのいたずらに見えることをするのです。まったく躾けがなっていないと思えることをするのです。しかし、その行動には必ず理由があるのです。
 ここでお伝えしたいことは、「躾けとは、いたずらを止めさせることではない」ということです。
躾けとは、
愛すること

 それでは何が躾けなのか? ということになります。躾けとは、ただ決められていると思われる枠型の中に子供を押し込めることではありません。
 躾けとは、どのようにしたら隣人を愛することになるのかということを教え、考えさせ、繰り返し実行させることです。
 なぜ、病院の中で大声を出したらいけないのか?
 なぜ駅のホームで走り回ったらいけないのか?
 なぜお客さんがきたら挨拶をしなければならないのか?
 その一つ一つはすべて隣人への愛から来ることなのです。それをしなかったら叱られるからするのではないのです。親の世間体のためではないのです。それがその人に対する愛することになるからなのです。
 先ほどの電車の優先席で寝てしまった若者たち。彼らは、目の前のお年寄りへの思いやりを表現することが出来なかったのです。
 なぜでしょうか? ここに大きな問題が隠されています。

良いとわかっていてもそれをする勇気が無いのです。

 彼らは、席を譲るべきだということは知っています。だからこそ眠ったのです。もし全く分かっていなければ堂々としていたでしょう。
 私も経験しましたが、席を譲ることは勇気のいることです。周りの人に見られます。何か格好つけているような自分が恥ずかしく思われます。ドキドキしながら思い切って席を譲った経験があります。
 なぜ良いことをするのに、そんな色々と考える必要があるのでしょうか。なぜそこまで自意識過剰になるのでしょうか?
 日本的な価値観から言えば、目立つこと、周りと違ったことをすることが悪いのであって、この場合も、自分だけ立って席を譲るということは、行為自体は良いことでも、目立つという意味では悪いことなのです。
 ですから時に、外見的に不良のように見える若者が率先して席を譲ったりすることがありますが、それは、周りの目を気にすることがないからかもしれません。
 つまり、「他人に迷惑をかけない」という言葉は、他人の目を最優先にして、世間様を気にするような生き方を身に着けさせてしまうことになり、結果的に「他人に迷惑をかける」ことになってしまいます。
 むしろ周りがどうであれ、何であれ、良いことは当たり前のこととして、本来は勇気など必要のないことですが、勇気をもって行うのです。そのためには、まず自分自身の人格がしっかりと育っていることです。

しっかりとした成長した心

 躾けとは、他者を愛する力を身に付けさせることなのです。
 「病院の中で走ってはいけません。」
 「レストランで大声を出してはいけません。」
 このようなことを躾けるのに、親自身が世間の目を気にしているのであれば、それは真の意味で躾けとはなりません。
 それが病んでいる人にとって、ゆっくり食事を楽しんでいる人にとってどうなのか?

 その人たちのためを考えて自分の行動を抑制すること、それは強制ではなく、愛から出てくる行為なはずです。子供は、なぜそれをしてはいけないのか? その理由が正当なものであり、また相手を愛することであるなら、必ず理解することが出来ます。

躾けの
ポイント

  たとえば食事の場合でも、自分で食べ始める頃というのは、とにかく手づかみで食べては投げを繰り返します。我が家には、今でも写真が残っていますが、ご飯が散乱する中に、食べ物を握っている子供が写っています。
  ですから常に新聞紙を敷いて食べていました。
  この時期は、それで良いのです。スプーンや箸の使い方を教えてもいいですが、躾けと称して食べ物を握るのを禁止することはありません。
  我が家の子供たちも、食べては投げを経験しましたが、ある時、まだ子供たちが七、五、二歳くらいの時だったと思います。ある方がフレンチレストランに招待してくれました。
 私たちが店に入った時、店の人が明らかに困った顔をしました。こんな小さな子供が来るような場所ではないのです。
 しかし、それが見事に子供たちが静かに座って食事をしたのです。後で店のオーナーが招待してくれた人にわざわざ電話をして、なんて躾けの出来た素晴らしい家族だとほめてくださいました。
 それで気を良くされて、さらにもう一度招待してくださいました。
 例えば、子供が将来にインドに行くかもしれません。インドの人は手づかみで食べますね。
 世間体を優先されて躾けられた人は、自分はあくまでもスプーンを要求します。

子供と一緒に人生を学びます

 しかし、正しく躾けられた人は、同じように手づかみで食べることが出来ます。
 その行為が、相手を愛することになるのかどうかを判断の基準にしているからです。
 また子供がお客さんに挨拶をすることなども躾けました。その時には、挨拶をする、しない、それが相手にどんな気持ちを与えるかを説明し、自分だったらどうか? と考えさせます。そうすると子供は理解して実行するようになります。
 でも出来ないときもあります。だから躾けとは、何度も繰り返すことなのです。それで身につくものなのです。

イタズラ小僧

 また、それがいたずらの場合はどうでしょうか? 児童心理学においては、いたずらとは「探求欲求に基づく行動」と呼ばれます。いたずらは、子供の人格が育つ上で、不可欠な行為なのです。ですから、いたずらは止めさせることではなく、むしろ受け留めることなのです。
 こんなことを言うと、わがままになるのでは? それこそ世間の目が、ということになりますが、このいたずらについては、次回に詳しく取り上げましょう。  
文:関 真士

ひよこの会
  • 日時;木曜日  第一、第三
    午前9時半~
  • 会場;HCC牧師館
    (ハワイ大学の近く)
    2207 Oahu Ave. Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

★どなたでも、ご自由にご参加出来ます。