HCC ひよこ13

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上手な叱り方(ひよこ13)
 さて、躾けについて考えていますが、今回は叱り方について考えてみましょう。
 よく言われるのは、感情的にならずに、冷静にということです。
 確かに、私たちは、叱る=怒ると同じ意味で使っています。お母さんに怒られた、というのは叱られたという意味です。
 しかし、厳密には、叱ることは教育的であり、怒ることは親の感情をぶつけていることになります。
 怒るのではなく、叱ることを身に着けて生きたいと思います。
 しかし、親も人間です。感情を抑えてばかりいては、親自身の方が参ってしまいます。あるいは、思わず感情的になって怒ってしまった後、後悔の念や、自責の念に駆られて、自分を責めてしまったり、そのするとますます怒ってしまうという悪循環にはまってしまうことになります。
写真・ひよこ
 子育ては、親育てでもあります。そして子育ては、親自身が自分を発見する作業でもあります。子供との関わりを通して、様々なことに気づかされます。
 特に、心の傷に関しては、子供を通してあらわにされるものです。だからこそチャンスでもあるのです。親自身が癒され、解放されるチャンスともなるのです。

 叱り方を考える前に、まず何を叱るのか? ということを確認しましょう。次に叱る順序について、まずことばで語りかけて理解させる、告白させる、刈り取りをさせる、赦しを与えるという順番で考えていきたいと思います。

何を叱るのか?


 何を叱るのかを考える前に、何のために叱るのか? も考えましょう。叱る目的は、子供が親の言うことに何でも「ハイ」と言うようにすることではありません。子供を危険から守り、人としての正しい生き方を教えるために叱るのです。
 ですから叱った後に、子供が守られていることの安心感を得ているか? それとも拒絶を感じているか? 何が正しいことなのかを理解しているか? それともただ親を怖れているだけなのか?をよく考えてみましょう。
 親の怒りという感情で、親の言うことを聞かされて育てられた子供は、物事の善悪の判断を、自分で考えて判断するのではなく、親が怒るかどうかで判断します。親の顔色をうかがいながら判断します。ですから、親のいない所では、平気で悪いことをすることになります。そのことが悪いことだと理解しているわけではないからです。

 叱る目的も、やはり子供の人格が育つことにあるのです。
 さて、何を叱るかということですが、細かく言ったらきりがないわけです。そこで、幾つかの基準を述べたいと思います。
 聖書には、人間が生きるルールが書かれていますが、次のイエス様のことばは、そのルールを究極的にまとめたものです。
 「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」      
(ルカ10章27節)

叱る時にルールがあります。

他人を傷つける

 まず神に逆らう、神を冒涜するような行為に関しては叱ります。親は神の権威を代行する存在ですから、親の権威に反逆する行為は叱る対象です。
 次に隣人を愛さない行為、つまり他者の身体や心を傷つける行為について。そして自分を愛するようにとありますから、同じように自分自身を危険な目に合わせたり、心も身体も傷つけるような行為、これらも叱る対象となります。
 前回も述べましたが、いたずらや親に対して自分の考えを述べることに関しては、教える対象であっても、叱る対象ではありません。
 親の権威への反逆とは、にんじんを食べなさいという親に、嫌いなにんじんを食べたくないということではないのです。
 黄色いシャツを着せようとする親に、その色はやだ、青色のシャツが来たいということではないのです。
 親への反逆とは、親を自分が操ろうとすることです。
 結局、その行為が、神に喜ばれることなのか?
 親を敬うことなのか? 自分を大切にし、隣人をも大切にすることなのか? ということです。
まず、ことばで

 親が怒りという感情をぶつけたら、子供からは怒りが投げ返されてきます。子供はふてくされた反抗的な態度や言葉使い、目つきをします。そこでさらに怒らるという悪循環です。
 親の感情が子供を抑え込んでも、子供が反抗を通しても、いずれにしても結果は悪いものでしかありません。
 感情は、相手の感情に呼応するものです。良い感情を投げれば、良いものが返ってきます。逆もしかりです。
 親が怒りという感情をぶつければ、その通りに返ってきます。これは法則のようなものです。仮に、返ってこない場合、それは親の感情を恐れてもはや自己表現が出来なくなっている状況です。
 聖書には「子供を怒らせてはならない」とあります。(エペソ6章4節)これは、「苛立たせてはならない」とも訳せます。
 それは、親の方から怒りという感情を子供に投げてはいけないということです。投げたら、そのままが投げ返されてきますから。
 しかし、親だって人間です。感情をなくすことは出来ませんし、感情を抑圧したら親自身の方が参ってしまいます。親がもし、自らの感情を抑圧して、本当は怒っているのに笑顔で子供に接するのもおかしなことです。それでは親自身が自分の人格を抑圧しますから、子供との人格的関係を持つことが出来ません。
 親が怒りという感情を持つことを否定するのではなくて、感情をことばで表現できたらどうでしょう。

良い事と悪い事の区別をつけさせる

 「ママは、あなたがあまり何度言っても同じことを繰り返すから、もう本当に怒っているの」と感情をことばで表現することが大切です。

 そしてことばで、何がいけないのか、なぜいけないのかを説明することです。
 子供は、神に造られているので、善いことを理解し、それを実行することに喜びを感じるものなのです。なぜ人を愛することが必要なのか? あるいはなぜ人を殺してはいけないのか? これは、教えることではなく、すでに神に造られた人間として子供の心の中にインプットされていることです。ですから、子供は、説明されれば必ず理解すること出来るのです。
 そこに正当な理由と説明がなければ子供は分かりません。それは大人も同じことです。

 前回も述べましたが、「公の場で子供が騒いでいる」状況の時に、親自身が「みんなが見ているから、恥ずかしいから、世間体が」と言った理由で叱っても、子供は分かりません。それは正当な理由ではないからです。しかし、そこがどのような場であり、相手への思いやりから、自分が騒ぐのを抑制(抑圧ではない)する必要を説明すると子供は、そこに正当は理由を見出すことが出来るので、行動を抑制し始めます。
 正当な理由とは、「自分を愛するように、隣人を愛する」という聖書に記された人間の生きるべき道です。
 親自身が、確固たる人生の価値基準を持つことです。何が善で、何が悪なのかを自信をもって教えることが出来ますように、そのためには、聖書を基準とすることをお勧めします。

 しかし、子供は反逆をする性質を持っていることを忘れてはいけません。あえて悪い道を選ぼうとするのもまた子供、いえ人間です。
 そこで、子供がセルフコントロールが出来るように手助けをします。

相手を思いやる心

興奮が収まらない時

 興奮して親のことばが耳に入らない。集団の場合には手がつけられないような時もあります。そのような子供が自分で自分をコントロール出来ない場合には、親の助けが必要です。次のようなことがアイデアとしてあります。
 例えば、三分間じっと一点を見続ける(花や絵や、近くにあるもの)。あるいは、別の部屋に一人で置いて考えがまとまったら出てくるように言います。
 あるいは子供が小さくて、興奮している場合には、子供をハグして、親が大きく深く深呼吸をします。その呼吸が子供の身体に伝わるくらいに密着します。
 さらに、子供をハグしたまま祈ります。「天のお父さま、どうぞ**ちゃんに平安を与えてください」
 そして落ち着いたところで、この場では静かにすることが必要であることを改めて前述のように語り聴かせます。
 この告白の意味は深いものがあります。きっと分かっただろう、と収めないで、子供の口から自分のことばで告白をさせるのです。
 何がどう悪かったのか? 子供の口からことばを出させてあげるのです。親はそのために、上手に尋ねてあげるのです。そして子供の鏡になって、子供の足りない言葉を補って繰り返してあげるのです。そして十分に子供が理解した上で、「ごめんなさい」を言うようにするのです。
 これは、自分の行為は悪いことであることを自覚させることになります。そして次のステップの刈り取り、赦しと続くことが出来るのです。
 もちろん、ごめんなさいを無理に言わせては意味がありません。
告白させる

刈り取りを
教える

 ごめんなさいが言えたら、子供に自分の行為に対する責任を取らせます。もちろん子供の出来る範囲です。子供同士の喧嘩であれば、相手に謝ること。もし持ち物を壊してしまったら弁償すること。もちろん親が買うのですが、子供が自分でそれを持っていきます。ゲームの時間を守れなかった時には、一週間のゲーム禁止などです。
 しかし、注意が必要なのは、悪かったと理解し、ごめんなさいを言っているにも関わらず、食事を抜きにしたり、全く関係のない楽しみ、例えば明日は友達と遊んではいけません、となった場合は、子供の心には納得の出来ない理不尽な思いが残ります。ある場合には傷つきます。なぜなら、それは刈り取りでははなく、刑罰だからです。
 刈り取りは、自分の行為には、責任があることを学ぶためにあり、決して刑罰とは違うのです。ですから、必ずペナルティを課さなければならいということではありません。その内容によりますが、ここは子供にしっかりと責任の取り方を教える必要がある時に刈り取りを与えるのです。
 先ほどの告白ですが、子供が心から納得してごめんなさいを言ったら、次に「それでは、どうやって責任をとろうか?」と子供に尋ねるのです。小さければ、小さいなりに考えさせるのです。
 そこで「**チャンに謝る」と言えれば素晴らしいことです。言えなくても、親が子供の未熟な部分を補って「じゃあ、こうしたらどうかな?」と教えてあげてもいいです。
 刈り取りは、親が裁判官席から宣告するようなものではなく、子供と一緒に考えるのです。我が家の次男は、ゲームのやり過ぎで叱られました。そして「じゃあ、どうする?」と尋ねると、自分から「一週間ゲームをしない」と答えます。自分で理解して、納得しての刈り取りですから効果があります。

ネコ

赦しを与える

 最後にこれが大切です。一回一回の出来事に終止符を打つのです。子供が叱られたとき、それが大小に関わらず、「理解し、告白し、刈り取ったら」親は子供に赦しを宣言してあげてください。
 ちなみに「許し」ではありません。「許し」は許可ですから、子供の悪い行為に対して許容することは出来ません。「赦し」は裁きが終わったという意味なのです。
 子供は、赦されるとき、もう一度立ち上がって前進する力を得ます。

 赦しとは、三つのFORです。
 FORGIVE  FORGET  FOEEVER

 子供にとって、いえ大人にとっても辛いことは、赦しがないことです。過去の行為によって、今も責められるということ、それは鉄の鎖と重たい球を付けられた囚人のように、いつも過去に引きづられてしまいます。
 赦しは、私たちから鎖を断ち切り、自由をもたらします。
 よく、日本は失敗したら終わりの国、だから失敗しないように行動する。何かいつもびくびくしているようです。
 しかし、アメリカは失敗してもやり直せる国だといいます。過去ではなく、今がどうなのか、これからどう生きるのか? それが問われます。
 もちろん巨視的な見方ですが、ある程度言い当てているでしょう。 

積み木

 子供たちが、いつまでも過去に捕らわれないで、むしろそれを糧として、明日に向かって生きていくために、赦しが必要なのです。
 「あなたは、確かにこのような失敗をしたけれど、でもあなたの過ちは赦された」と言ってあげたいものです。
 その時に、赦しの根拠として、聖書のことばを引用して、一緒に祈ってあげてください。

 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださいます。」

(1ヨハネ1章9節)

イエス・キリスト

 「神さま、ボクは**な悪いことをしてしまいました。ごめんなさい。でもイエス様がボクの罪のために十字架にかかってくださり、僕の罪が赦されたことを信じます。」と祈ってください。
 そう祈って、子供を赦したからには、親は「あの時にも!」と言って過去のことを持ち出さないことです。それは、子供の心を過去に縛ることになってしまいます。

 叱る時には、必ずこの「赦し」にまで至りましょう。そうすれば、子供は叱れることによって良い人生を手に入れます。

文:関 真士
ひよこの会
  • 日時;木曜日  第一、第三
    午前9時半~
  • 会場;HCC牧師館
    (ハワイ大学の近く)
    2207 Oahu Ave. Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

★どなたでも、ご自由にご参加出来ます。