HCC ひよこ14

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正しい権威で育てる(ひよこ14)
写真・ひよこ
 さて前回は叱り方について考えてみました。しかし、叱るからには、そこに権威がなければなりません。
 子供は、正しい権威をもって躾けられ、叱れると大きな安心感に満たされます。決して怒りや傷を持つことはありません。
 そこで今日は、親の権威について考えてみたいと思います。現代は、権威失墜の時代と呼ばれています。一昔前は、父親は「地震、雷、火事、親父」に含まれる畏れるべき存在でした。学校の先生にしても、年上の人にも、それぞれが「権威」を持っていました。しかし現代では、子供の口から「なぜ先生の言うことを聞かなければならないの?」「なぜ親に従わなければならないの?」といった質問が出る時代です。
 一昔前には、当然のこととしてあった「畏れ敬う」という心の有様が失われているのが現代です。
 その原因は様々な角度から考えることが出来るでしょう。人間は皆平等であるということが言われます。これは、基本的な人権や、神に愛されている、ということにおいて皆が平等であるということで、同等であるという意味ではありません。親と子は同等ではありません。先生と生徒もそうです。平等と同等を混同してしまって、それぞれの関係が友達のようになってしまいました。そしてそれが良い事かのように言われる風潮があります。友達ですから、相手には何の権威もありません。「〜〜しなさい」と言われても、それに従うという発想が出てきません。
 あるいは、権威を持っている人々、社会の中で先生と呼ばれる立場の人や、親自身が、権威を乱用したり、子供に失望を与えるような生き方をしていては、そこに権威を認めることは出来ません。
 むしろ、そのようなつまずきは権威者に対する怒り、反発となって出てきます。
 理由は色々あると思いますが、「畏れる」べき存在を失った社会は、大黒柱を失った家のように、もろくも壊れていきます。
 神は、秩序の神です。この世界にある、神によって造られた全てのものに目を向ける時にそれが分かります。大自然の営みに、人体の不思議に、社会の成り立ちに、全てに秩序があります。家族のあり方にも、夫、妻、子供という関係は偶然ではなく、神が定めた家族の形です。そして神は、そこに権威者を置きます。

 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」  

(ローマ13章1節)

 すべての権威は神によって立てられています。権威者に従う、敬うということは大切なことです。
 しかし、だからこそ権威者には特別な責任が要求されます。

 日本の新聞では、「先生」と呼ばれる立場にある人に対しては、特別に厳しい基準を設けています。学校の先生や医師、弁護士、政治家など、普通なら新聞に載らないような軽犯罪でも、実名で報道されます。それだけ責任が重いのです。

穏やかな農村の風景

権威の乱用

 「主を畏れることは、命の泉」  
(箴言14章27節)

 真の権威者は、神ご自身です。私たちは、神から親としての権威を預かっているのです。ですから、権威は自分のものではないことを自覚することが大切です。つまり自分の自由に使用していいものではないのです。
 例えば、警察官がいます。彼らは国家から逮捕権という特別な権威を与えられています。この権威も国家からの与かりものであり、彼ら自身のものではありません。その証拠に、退職した時点でその権威はなくなります。あるいは、もし警察官が、個人的に嫌いな人がいて、その人を逮捕しようと考えても、それをすれば権威の乱用で処分されてしまいます。警察官の権威とは、警察法というルールの中で、職務を遂行する時にだけ生じる権威なのです。
 同じように、親である私たちにも、神から親としての権威が預けられています。もし、この権威を、自分の感情のために、自分勝手な思いのために使用するとすれば、その行為を支持する権威はありません。それは権威の乱用ということになります。 親としての権威は、神に与えられた親としての務めを遂行している時にだけ生じるのです。
 躾とは、親のいうことを子供に聞かせることではありませんし、子供にハイと言わせるためのものではありません。躾は人格を成長させることです。もし、私たちが、一方的に子供を自分に従わせるために権威を使用する時、権威はなくなります。当然、子供は権威を感じることが出来ませんから、ますます言うことを聞きません。そうすると親の方も、権威を強調しようとしますから、恐ろしい声を出したり、怖い顔つきをしたりして、権威者であることを主張しようとします。そうするとますます子供はそこに権威を感じなくなります。まさに悪循環です。
 権威とは声色や、顔つき、態度で表現されるものではなく、真の権威とは、神の真理に従っている時に生じるものなのです。
 私たちの持っている権威者のイメージとはどのようなものでしょうか。なんだか偉そうな、威張っているような、王様のような、そんなイメージがないでしょうか。
 しかし、真の権威者である神の御子イエス・キリストは次のように語られました。「この世の支配者たちは、人々を支配し、偉い人たちは人々の上に権力をふるいます。しかし、わたし(イエス)が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためである。」  
(マタイ20章27節)

 真の権威とは、人々に仕えるために使用されるものなのです。人が人に仕えれば仕えるほど、そこに権威が生じるのです。

本当の権威は怒鳴るものでありません

イエス様の心を持っていますか?

 現在サーバント・リーダーシップということが言われます。真のリーダーとは人に仕えることの出来る人だということです。この理念は、もちろん前記の聖書の言葉を基にしたものです。
 私たち親も、このサーバント(僕)としてのリーダーシップを身につけたいものです。
 英語で権威はAouthorityです。しかし権力はPowerです。人は正しい権威に治められ、従うことに喜びを持ちます。しかし人は権力には反発し、あるいは抑圧されます。
 私たちは権威によって子供を治めているでしょうか? それとも権力によって子供を従わせようとしているでしょうか?
 私たちが子供たちに仕えるときに、真の権威が生じるのです。

 私たちが親として子供を権威を持って治めて行こうと願うならば、子供たちに仕えることです。この世の支配者のように、権力をもって、自分に仕えさせるものではあってはなりません。
 仕えるとは、なにも子供の言いなりになれということではありません。子供にとって一番大切なことのために、自らの感情や願望を手放して、子供の人格が成長するために自らを捧げることなのです。
 よく、叱っても叱っても、言うことをきかない子供がいます。しまいには、叱る方もエスカレートしていって、とんでもないことを口走ってしまったり、つい手が出てしまうこともあります。それでも、ますます子供は言うことをきかなくなります。子供は正直です、権威のないところに「畏れる心」「従う心」は育ちません。

 親が、神から与えられている権威によって子供を治めていくことは、親の務めです。しかし時に、親自身が権威者であるという自覚を持たないために、子供の心に権威を「畏れる」ことを教えられない場合もあります。
 責任の放棄ということですが、権威者の役割は、守ること、教えること、導くことです。 この役割は夫婦共同で行うことですが、夫がいるならば、やはり家族の権威者は家長である夫になります。
 一昔前の高度成長期の日本においては、多くの家庭で父親が会社に取られて不在でした。権威者が権威をもって、子供たちを悪から守り、善悪を教え、正しく躾けていくことが出来ませんでした。
 父親も仕事で疲れきって帰宅し、子育てという難解きわまる問題に真正面から立ち向かう気力は残っていませんでした。必然的に、子育ては母親の役目という分担が出来てしまい、家庭の中に権威が失われてしまうことになり、怖いものは「地震、雷、火事」だけになりました。
 権威を畏れることを学ぶことが出来なかった子供たちは、従うことの喜び、安心感を経験できずに大人になります。

権威の喪失
権威の回復
 権威が乱用されることによって、子供の心は傷つき、権威を嫌い、反発するようになります。
 一方で権威の喪失によって、子供の心は守り手、教え手、導き手の不在により、大きな不安感を持つようになります。
 結果として現代の人々は、権威を無視し、反発するかと思えば、いとも簡単に偽りの権威に利用されて騙されたり、変な集団に入ってしまったり、という両極端なことが起こって来るのです。
 家庭の中に権威が回復することは、家庭に大きな大黒柱が立つようなものです。全てが安定してきます。

 それでは私たち親は、どのようにして正しい権威者となれるのでしょうか。
 まず、権威者は、自分自身が権威に従うものでなければなりません。イスラエルのソロモン大王は、あらゆる知識に精通した王でした。その人生論が聖書に記されています。彼はその人生論の結論として「神を畏れよ、神の命令を守れ、これが人間にとって全てである。」  
(伝道者の書12章13節)
 と語っています。

 真の権威者は神ですが、私たちが今日までに出会って来た権威者、両親、先生、上司、先輩などとの関わりが、自分と神との関わりにも影響を与えます。例えば「先生」と聞いてどのようなイメージがわきますか? 尊敬、厳しい、優しい、物知り、など様々でしょう。

どこにでも権力を乱用する人がいます

 ある学校の先生に大きなつまずきを持っている人は、偽善者、汚い、嘘つき、横暴、などという言葉が出てきたことがありました。そのような経験があったのだと思います。その人にとっては、先生と呼ばれる権威者は憎しみと軽蔑の対象でした。
 ですからおおよそ先生と名のつく人々に対して非常に偏ったイメージを持ち反抗的でした。指導されたり、注意されたり、教えられたりすることが苦手でした。それは神に従うという姿勢にも影響を与えます。
 しかし、どのような体験があったとしても、神ご自身を知るときに、私たちは真の権威と、権威を畏れることの幸いを体験するのです。神の権威は、人を愛するための、人を救うための権威だからです。人間にとって従える対象を発見することは、心に大きな平安をもたらします。

 次に権威者は、自分を捨てる者でなければなりません。親の権威は子供の人格を生かすためのもので、人格を支配するための権力ではありません。 そのためには、自らの感情や願望を神の御前に整理する必要があります。愛とは奪うものではなく、捨てるものだからです。

 さらに権威者は、確信を持っていなければなりません。確信の根拠はもちろん神の真理です。家の大黒柱が揺れてしまえば、全てが揺れます。大黒柱は強固でなければなりません。そのためには、絶えず自らの親としての在り方を、神の真理によって建て上げ、時には修正していくのです。そして、自分のやっていることに、神による確信を得ていくのです。
 子供に親の言うことを聞かせようとするのをストップして、今まで述べてきたように、人格を尊重していく時に、子供は今までとは全く違う行動をします。

何が一体大事でしょうか?

 人間はもともと神という権威に従うように造られているのです。ですから子供は権威に敏感です。目に見える「権威者のような感じ」ではなく、実際に権威があるかどうかを瞬時に見分けます。もし、そこに権威があれば、子供は必ず判ります。そして従い始めます。人間は無意識の中で、従える対象を探しているとも言えます。
 親が子供を従わせようとする時、子供は反発します。しかし、親が子供に仕える時、子供は親の言ことに「ハイ」答えるようになります。それは子供が親の上にある権威を感じるからです。そして、その権威を畏れるのです。
 しかし私たちは逆に、子供に畏れることではなく、恐れさせることによって従わせようとしてしまいます。この世の権威と、神の権威とは、逆であることを覚えましょう。

誰でも権威の事について学びます

  私は、父親にそのような権威をもって治められた経験がありません。ですから見事なまでに、権威に反発したり、そうかと思えば権威に依存したり、権威に正しく治められる喜びを知りませんでした。
  自分を失って生きている時には、むしろ「恐れ」が自分の心を支配していました。その時には、神の権威を「畏れる」ことは分かりませんでした。
  しかし、心のどこかで安心して「はい」と従えるものを探していたようにも思います。テレビや映画で、そのように子供が親を畏れ敬っている姿にあこがれもしました。
 「恐れ」の向うには、拒絶と怒りがあります。しかし、「畏れ」の向うには、愛が献身があります。「畏れ」と「恐れ」は同居できません。
 私は、神を畏れることを知ったときに、人に対する「恐れ」から解放されました。
 子供たちにも、「畏れ」の心を持ってほしいものです。そのためには、「恐れ」から解放される必要があります。
 私たちの子供たちは、恐れから「はい」と言っているのでしょうか? それとも「畏れ」からでしょうか?
 まず自分自身が神の権威を畏れる者でありましょう。そして親として委ねられている権威を、正しい心をもって用いていきましょう。子供の人格を育てるために。

 次回は「恐れ」について考えてみたいと思います。  

文:関 真士

まずは自分から神さまからの権威を学びましょう

  • 日時;木曜日  第一、第三
    午前9時半〜
  • 会場;HCC牧師館
    (ハワイ大学の近く)
    2207 Oahu Ave. Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

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