HCC ひよこ15

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子供から恐れを取り除く(ひよこ15)

 前回は、権威について、また子供が権威を畏れる心を持つことの大切さについてお話しました。今回は、同じおそれでも「恐れ」について考えてみたいと思います。

 恐れと畏れ

 「畏れ」と「恐れ」この両者は、発音は同じでも意味は全く違います。「畏れ」は良いものですが、「恐れ」は悪いものです。
 親が子供に「畏れ」られることは良いことですが、「恐れ」られることは良くないことです。
 親が子供を厳しく叱った時に、子供が怖くて親から逃げるか、それとも親のところにハグを求めてやって来るか。子供に「畏れ」を与えているのか、「恐れ」を与えているのか、とても重要な違いです。

写真・ひよこ


 さて今回は、「恐れ」について考えてみたいと思いますが、創世記の3章10節に「彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』」と記されています。
 これは人間が神に逆らい、神との関係が壊れた時に人間がとった行動を表しています。このように神との関係が壊れ、神に逆らうことを聖書では「罪」と呼びます。またそのような状態にある人間を「罪人」と呼びます。聖書が言う「罪」とは、あれをした、これをしたという悪い行いというよりは、神に逆らうということ、つまり神との関係において理解されることなのです。

最初の行動
―隠れる―

 さて、まず罪人になった人間が最初にしたことは、「隠れる」ことでした。この隠れるという行為は、人間にとって最も深い意味のある行為です。  アダムは、最初はいちじくの葉で身体の一部を隠し、それでも足りずに今度は全身を木の陰に隠しました。
 以来、人間は常に本当の自分を隠そうとするようになりました。ありのままの自分を生きるのではなく、偽りの仮面をかぶって生きるようになってしまったのです。
 その仮面の数は、人によって違います。一つか二つの人もいれば、出会う人の数だけという場合もあります。
 人に合わせて仮面を変えているうちに、本当の自分の顔が分からなくなります。親の前の顔、友達と一緒にいる時の顔、仕事中の顔、一人の時の顔…、自分の本当の顔を知っていますか?
 誰でも、本当の自分でいたいし、自分を生きたいと願っています。そこで自分探しの旅が始まります。そこで自己実現や自己開発セミナーのようなものが流行したりします。しかし、香山リカという心理学者が述べていましたが、「ありのままの姿、本当の自分の姿というが、それも結局は自分の中で造り出した理想の自分であって、それは真の自分の姿ではない。」確かにその通りであると思えます。
 私も、長らく人に合わせて仮面を変えていたので、しまいに本当の自分の顔が分からなくなりました。この場面では、怒るのか笑うのか? 怒っているのに、なぜか笑っている自分がいたり、一体本当の自分は何なのか? 木の陰から出たい、でも出られない、そんなジレンマの中にいたように思います。
 それにしても、なぜ隠れるのでしょうか? なぜ人間は、本当の自分を隠そうとするのでしょうか?

仮面を変えて生きる

最初の感情
―恐れ―

 罪人、つまり神との関係が壊れた人間が最初に持った感情、それは「恐れ」でした。
 そうです。人間は恐れるから隠れるのです。恐れとは、人間の一番奥深い所に宿る感情です。
 隣の部屋で三番目の子供が静かにしています。普段元気な子供が静かにしていると、逆に不安になります。何をやっているのかな?と部屋に入っていきますと、カーテンの後ろでごそごそ何かやっています。カーテンを開けると口のまわりをチョコレートでベトベトにした子供が複雑な顔をして見上げます。「ご飯前にチョコレートを食べてはいけないでしょう」と言うと、首を横に振って「食べてない」と言い張ります。しばらく「食べてない」と頑張ります。そこで「チョコレート美味しかった?」と聞くと、「うん、美味しかった」と元気よく答えました。
 悪いことをしていると分かっているので、カーテンの後ろに隠れます。なぜ隠れるかといえば、見つかったら叱れるからです。小さな子供にさえ、人類最初の出来事がまさに受け継がれているのです。もちろん大人もそうです。「恐れて、隠れる。」この構造が人間の生き方を支配していると言っても過言ではありません。
 人間は感情の生き者とよく言われます。非常に理性的な結論のように見えても、実は感情に基づいた結論が先にあったりすることが度々あります。「恐れ」という感情は、私たちの人生を見えないところでコントロールしています。

 突き詰めると、その恐れは刑罰に対する恐れです。怒られる、拒否される、捨てられる等と表現できるでしょう。

罰せられる事に対する恐れ

根本的にある問題は、罰せられるという感覚です。これがなければ、恐れること、隠れることもなくなります。
自分が本当に自分の考えていること、感じていることを周りに合わせて表現できないとするなら、それはそれを表現したら、恥ずかしい、馬鹿にされる、批判される、叩かれる、などという思いがあるからです。
想像してみてください。特に人間関係においてもし、この恐れの感情がなくなったら、どんな自分になれるか?
 私たちの子供たちが、恐れのない人生を歩んで欲しいと思います。どんな状況でも、どんな相手に対しても、しっかりと自分を持って、自分を強く見せるのでも、逆に弱く見せるのでもなく、そのままの自分でいられるなら、子供は間違いなく幸せです。
恐れのない
子供

存在への恐れ

 子供は、誕生したその時に、「捨てられる」という恐れを持つと言われます。この世に産まれ出た喜びは、潜在的に感じ取っていると思いますが、それ以上に、へその緒を切られるという、つまり自分の命の源が切られるわけです。酸素も栄養も全てがそこから供給されていたのですから。
 この時に、子供を大きな恐れを持ちます。しかも、動物のように、すぐに自分で立つことも出来ません。自分一人では生きていけないのです。
 親の務めは、この時に子供から恐れを取り除くことなのです。
 まず子供はへその緒を切られた時に、その不安を消し去るような、喜びを受けるのです。周りの人々が自分の存在を喜んでいる、自分が存在することは人々の喜びなのだということを体験し、捨てられるという恐怖感から解放されるのです。
 子供が育ってくる中で、この「捨てられる」という恐れは、ことある事につきまとうようです。親は、何度でも繰り返して「私たちは、どんなことがあっても、あなたを捨てない、大丈夫だよ」ということを伝えていくのです。
 その逆に、叱る時に「外に出すぞ、出て行け、他の家の子にしてもらうぞ」などという脅かし文句は、脅迫以外の何物でもありません。
 子供は、怖くて「ハイ」と言うかもしれませんが、その心には恐れが育つことになります。
 私たち親の務めは、子供の心から恐れを取り除くことにあることを忘れてはなりません。

自立への恐れ

死への恐れ

 もう一つ、これもしばしば聴くことですが、子供は大人が思っている以上に死を意識しています。
 それも、へその緒が切られたときに経験した恐怖感から来るのかもしれません。それが肉親の死や葬儀などを通して、死に対する恐れとして意識されます。
 アニメやゲームを通して意識される死とは、別の、もっと存在の深いところから来るものです。
 この死への恐れが解決されないままでいると、子供は明日への恐れを持つようになります。それは明日というのは、死に近づくものだからです。 子供が希望をもって明日に向かってたくましく前進するためには、確かな希望を持つ必要があります。
 人間は、小さな子供でもいつか死ぬことを本能的に知っています。そして死は恐ろしいものであることも知っています。
 しかし、親は死についてタブー視しないで、ごまかさいで、はっきりと答えてあげましょう。もちろん、こちらかあえて死について話すことはありませんが、例えば子供が質問してきた時、肉親の葬儀、ペットの死でもいいです。
 そのような機会があったときに、死については教えることは、子供が希望を持つことの大きな助けになります。
 もちろん、これは親自身の死生観にかかっています。しかし、聖書を人生の基盤にしている私にとって、このような時に幸いだと思うことは、聖書には、永遠の命、天国の約束が書かれていることです。

花

 「御子を信じる者は、永遠の命を持つ」
 
(ヨハネ3章16節)

 私も先ごろ、父を天国に送りました。日本には長男(16歳)を連れて行きました。死という現実を見て欲しかったからです。それも永遠の命の希望を彼が持っているからこそ出来ることです。
 先日は妻のお母さんが天国に行って二周年目の日に、マジックアイランドに行って花びらを海にまきました。
 子供たちは、おばあちゃんが天国にいることを信じて花びらをまきました。10歳の次男は「もうすぐ、僕たちもそこに行くからね、また会おうね」と言っていました。
 親は「すぐでなくていい」と思うわけですが、子供たちの中に天国の存在がリアルにあるのだと思いました。
 確かな希望を持つ時、死に対する恐れはなくなります。死が怖くなくなると、明日も怖くなくなります。
 子供たちの目の前に困難が襲ってきても、究極的な希望を持っていると、その困難という壁の向うに目を向けることが出来ます。
 「恐れて隠れる」という生き方をしている人は、人間関係にとても疲れます。
 人にどう思われるか? そこにある思いは、その人に拒絶される、否定される、怒られる、一言で表現すると「裁かれる」という意識です。そのような思いがあると、対人関係にトラブルが起こってきます。
 人に対する恐れを持っている人は、両極端な行動をします。それは、全く人との関わりを絶ち、自分の殻に閉じこもって孤立の道を歩むか、あるいは、全ての人に受け入れられ、良い評価を得られるように、常に人に合わせて生きるかのどちらかです。どちらにしも、つらい人生です。
 もし子供が人に対する恐れを持っていたら、豊かな対人関係を築くのが困難になります。
恐れを
消し去るもの

 人生は出会いで決まると言いますように、人に対する恐れは出会いを妨げ、子供の人生を貧しく狭いものにします。
 もし、子供の心の内から恐れを取り除くことが出来るなら、その子供は実に豊かな人生を手に入れることが出来るでしょう。また、子供が小さいうちから死に対する恐れを取り除くことによって、明日に向かって生きる力、困難を乗り越えていくたくましさを身に着けることが出来るようになります。
 恐れは私たちの人生にまったく必要のないものです。全て完全に取り去っていいものです。それでは、どうしたら「恐れ」を取り除くことが出来るのでしょうか。
 次の聖書の言葉を知っていただきたいと思います。

愛が無ければ恐れがあります

 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。」
 
(第一ヨハネ4章18節)

  恐れに打ち勝つ最大の武器は、愛です。愛には恐れがありません。愛と恐れはまったく相容れない、正反対のものです。そして、恐れには刑罰が伴っていますが、愛には赦しが伴っています。
  罪人になった人間は神から隠れました。罪に対する刑罰を恐れたからです。しかし、今や罪に対する裁きは終わりました。イエス・キリストの十字架は、私たちが受けるべき罪に対する刑罰を身代わりに受けてくださったものです。ですから私たちは、もう刑罰を受けることはありません。
  これが聖書で言う「救い」です。ですから、もはや私たちは、隠れる必要がありません。 愛と赦しのあるところに恐れは存在できません。
 さて、子供の心から恐れを取り除く方法は、ただ一つ愛することです。その愛は、赦すこと、ありのままを受け入れることです。
 子供が何か叱られるようなことをした時、前回述べたように、権威をもって、子供の人格を生かすために躾けをします。
 しかし、その時に親には、たとえあなたがどんなに失敗しても、何度失敗しても、愛し続けるという確固たる思いが必要です。そのような愛に裏打ちされた権威は、子供の心に親に対する畏れをもたらします。畏れを持つ時、恐れはなくなります。畏れの心は、愛と赦しによって育ちます。しかし、恐れの心は、批難と拒絶によって育てられます。
あるドイツ人の家庭のことです。食事中に五歳の子供が騒ぎ出しました。お父さんがバチンと指を鳴らすと、子供はビクッとして静かになりました。聞くところによると、お父さんのスパンクに子供たちは震えるぐらいになるそうです。しかし、スパンクをされた後、痛いお尻を抱えながら、お父さんの膝の上に乗ってくるそうです。もちろんお父さんは、そこで思いっきりハグして愛の言葉をかけてあげます。これは「畏れ」です。
  「全き愛」とは、子供をどこまでも、どんな時でも、どんなになっても、決して変わらず、愛し続ける、無条件の愛、無償の愛のことです。
しかし、まず自分自身が、神の子供として、そのように神に愛され、赦されていることを信じることです。
その神の愛の体験は、心に泉を湧き上がらせ、それは子供にも流れていくことでしょう。  
文:関 真士

愛は子供を育てます

ひよこの会
  • 日時;木曜日  第一、第三
    午前9時半〜
  • 会場;HCC牧師館
    (ハワイ大学の近く)
    2207 Oahu Ave. Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

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