HCC ひよこ18

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父性と母性 その2(ひよこ18)
 今回も前回に引き続き「父性と母性」をテーマに考えていきたいと思います。
 父性と母性もまた、神のかたちの現れであり、「人格」の内容を表現するものです。ですから両方の性質は、一人の人の中に同時に存在する性質であって、男性だから父性、女性だから母性ということではありません。確かに大きな見方では、男性は父性が強く、女性は母性が強いということは言えると思いますが、一人の人間として、この両方の性質をいかにバランスよく持つことが出来るかが人格的な成熟度です。 また夫婦という単位で見るならば、両方の性質が夫婦の中でバランスよく機能しているかどうかが夫婦関係の成熟度です。
写真・ひよこ
父性と母性の
バランス

 最近、男性の女性化、女性の男性化ということが言われます。非常に母性的な男性、非常に父性的な女性。夫婦における父性と母性の役割が逆転しているという現象が報告されています。この現象の原因が単に社会状況の変化に伴うものであれば、バランスさえ取れていれば良いわけです。しかし、そこに傷ついた原因があるならば、それは決して良い実は結びません。例えば、男性の女性化が、父親との関係の希薄さや母親との満たされない関係から来ているのであれば問題です。女性の男性化も同じことです。傷ついた根からは傷ついた実しか結ばれません。バランスを取ることは困難です。
 例えば間違いを犯した人に対して、母性はまず赦そうと考えます。父性はまず間違いを正そうと考えます。バランスが取れている人は、その両方を表現することが出来ます。しかし、バランスが取れていない人は、どちらか一方だけになります。
 子育ての中で考えて見ましょう。先にも述べたように、人格とは、父性と母性の両方です。どちらか一方では、人格ということは現すことが出来ません。子供の人格が成長するためには、この両方の性質が同時に表現される必要があります。
 子供は、常に叱られるようなことをします。その時に、夫婦であればどちらか一方が父性の役割をします。物事の善悪を明確にして、言葉で論理的に子供に説明し理解させます。時には厳しい懲らしめが必要な時もあるでしょう。
 そこでもう一方が母性の役割をします。子供に対して、どんなに失敗しても両親の愛は変わらないということを、抱きしめ、励まし、目に見える表現で子供に伝えます。
 夫婦が愛と信頼で一致していれば、子供は同時に二つの性質を一つのものとして受け取ることが出来ます。それによって子供の人格は成長していきます。
 もし夫婦が一致していないと、子供は両方の性質の間を、時計の振り子のように行ったり来たりします。
 どうなるかと言うと、父性だけを受けていると、存在不安がやってきます。いつも評価され、裁かれているので、裁かれないために良い子を演じるようになります。心にはいつも受け入れられるかどうかという恐れを持つようになります。
 逆に母性だけを受けていると、成長への不安がやってきます。自分が包まれている巣の外に飛び出して行く勇気を持てません。いつまでも現状に留まろうとします。自分の足で立って、自分の人生を生きていく力を持てません。結局それも恐れが心を支配していることになります。

泣く子

 夫婦がそれぞれ父性と母性の役割をしていても、夫婦に一致がなければ、子供はそれを一つのものとして受け取ることが出来ません。子供は混乱するだけです。
 一人の人間が、ある時は猛烈に頑張って働きます。しかし、思った通りの評価を得られないと、一転して自分の殻に閉じこもって、周りとの関係を絶とうとします。外向きに頑張っている姿と、内向きに引き込もっていく姿を行ったり来たりします。
 それが神様のイメージに反映されると、いつも怒っている怖い神様、だから怒られないように逃げるか、良い信仰者を演じるかとなります。かと思うと決して怒らない、何でも許してくれる、甘くていい加減な神様を造り出してしまいます。その両極端な神様の間を行ったり来たりします。
愛し方のモデル

 本来一つであるべき父性と母性ですが、なかなか一つになれないのが現状です。どうしたら、もっとバランスの取れた者になれるのか、今回は聖書に出て来る一つの物語から学びたいと思います。
 旧約聖書の中の第一列王記三章一六節から二八節に、大変興味深い物語があります。これは大岡裁きでも有名な物語です。(でも時代的には明らかに聖書の方がオリジナルです)
 ある時、ソロモン王のもとに、二人の母親が訴えて来ました。それぞれ三日違いで生まれた子供を持っていましたが、同じ部屋で寝ている時に、赤ん坊が一人の母親の体の下敷きになって死んでしまいました。その母親は朝起きてみると、なんと赤ん坊が死んでいるのです。しかし訴えによると、同じ部屋で寝ていた母親が自分の生きている子供とすりかえたのだと言うのです。さて、問題は、この赤ん坊の本当の母親はどちらかということです。
 現代のようにDNA鑑定があれば一発ですが、当時のことですから無理です。そこで神の知恵に満ちたソロモン王は、「生きている子供を二つに断ち切り、半分づつ与えなさい」と宣告しました。
 それを聞いた一人の母親は、「どうか、生きている子を、あの女にあげてください。決してその子を殺さないでください」と言いました。もう一方の母親は、「それを私のものにも、あの女のものにもしないで、断ち切ってください」と答えました。
 そこでソロモンは「生きている子供をはじめの女に与えなさい。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親だから」という判決を下しました。
 さて、最初にソロモン王に訴え出たのは、子供を得た母親です。この母親の訴え出て白黒つけようという態度は父性的でもありますが、我が子に対する思いから出た行動ですから、やはり母性的です。
 当時の世の中ですから、日本でもそうであったように、お上に直訴することは切腹覚悟のことでした。イスラエルの国でも同じです。王様に直訴することは命がけのことです。まさにこの女性は、子供を得るためなら手段も選ばず、命もかけるという、それほどまでにして子供を得たいという、まさに母性です。
 しかし一方で、子供を断ち切らないで生かすためには、自分が諦めるしかない。「生きている子供をあの女にあげてください」と言ってのけるです。
 自分の子供を奪おうとする憎いあの女に自分の子供をあげてしまうというのです。子供が生きるためには、これしか方法がないのです。子供が生きるために、自分の一切の権利を放棄することが出来る。これはまさに父性です。
 子供を得ようとする母性、子供を生かすために、子供を手放す父性、この両方をこの母親は持っていたのです。

猫

 実は、どちらが本当の母親なのか、つまり血的にはどちらなのかは実際には分かりません。常識的には子供の命を尊ぶ方が本当の母親と思いますが、あくまでも事実は分かりません。
 しかし、なぜこの母親が、子供の母親として認められたのかというと、それは母親に必要な「愛」を持っていたからなのです。
 子供を得ようとする母性、これも愛です。一方、子供が生きるために手放そうという父性、これも愛です。どちらも、まさに愛です。
 同じ愛という言葉でも、母性的な愛、父性的な愛は、ずいぶん違って見えます。かたや手に入れようとする愛、一方で手放す愛。どちらも確かに愛です。愛とは、受容することでもあり、手放すことでもあります。
両手を広げて

 ここから学びたいことは、私たちが父であっても、母であっても、真に子供を愛するとは、子供の存在をありのままで受け入れること、そして子供の成長のためには、手放すこと。そのような父性と母性の両方が一つになった愛を持つことなのです。
 愛するからこそ受容し、愛するからこそ切り離す。どちらか一方では、それは愛とは呼べないのです。二つの性質が一つになって初めて「愛」となるのです。

 ある一つのドラマのワンシーンをイメージしてみてください。自分が我が子に向かって両手を広げている場面です。さて次のシーンは、どのような展開になるでしょうか?
 我が子が自分の手の中に飛び込んできてハグをするというのが多い答えです。

 中には、ハグしようとすると子供が身を避けてしまうとか、子供をハグしようと自分が子供を追いかけて子供は逃げるとか、色々ありました。そして、ある方は、子供が自分に背を向けて離れて行くというシーンをイメージとして持った方がいました。
 この場合は、自分が広げている両手は、迎え入れるためのものではなく、手放している両手なのです。
 このドラマの一シーン前は、子供は自分の懐にハグされていて、次のシーンで両手を広げ、さらに次のシーンで子供が親の懐から飛び立っていくようなイメージです。このイメージを持った方は、思春期の子供がいる方でした。
 私たちが、子供に向かって広げている両手、それはいつでも迎え入れるという受容の両手でもあり、またいつでも手放しているという自立の両手でもあります。

 我が家の三番目の息子は七歳くらいまで、外で遊んでいると、こちら目がけて矢のように走ってきます。そして私に飛びつき、私は彼を力一杯ハグします。するとまた矢のように飛んで行きます。しばらくすると、また矢のように飛んできて、ハグされて、また矢のように飛んでいきます。しばらくの期間、そんなことを繰り返していました。
 子供は愛を確認しに来るのです。自分の存在が愛されているか、大丈夫か、自分の帰る場所があることを確認しに来るのです。愛されていることに安心すると外にむかって思い切って出ていけるのです。

神の言葉

 もし、ここで親がハグに応えてあげなかったら、あるいは、ハグしたまま手を離さなかったらどうなるでしょうか。親は、子供が向ってきたら両手を広げてハグし、また子供が行こうとしたら両手を広げて手放すのです。
 受け入れること、手放すこと、この繰り返しによって子供はやがて、親の元に戻って来なくても大丈夫なくらいに、自分の存在を確立していくのです。
 子供を受容することも、手放すことも、子供の成長にとっては両方が必要なのです。

イエス・キリスト

正しく愛する

 子供は産まれてから、まず親に初恋をすると言われています。息子は母親に、娘は父親にです。
  夫婦は、本来愛と信頼で結ばれているものであり、子供はその夫婦の愛のおこぼれで育ちます。「おこぼれ」で十分なのです。
  知り合いの夫婦は、夫婦がソファで仲良く座っていると、二歳になる娘がやってきて、夫婦の目の前で壁に頭をぶつけ始めるということがありました。
  その時の娘の行動は、母親を恋のライバルとしてとらえ、身体をはって父親を奪おうとしているわけです。
  しかし、夫婦がしっかり結ばれていることによって、子供は初めての失恋を経験し、不健全な母子癒着、父子癒着から守られて健全な自立へと向かうのです。

 しかし、ある場合には、特に多いケースは、母親が夫への期待を失い、本来夫に注ぐべき愛情を息子に全て注いでしまうというものです。
 息子に自分の人生の全てをかけるようになります。そこで息子は、失恋を経験できません。それによって、母子の不健全な依存関係が成立してしまいます。
 よく、夫とは血はつながっていないけれど、子供とは血がつながっているから、言います。しかし、まず夫婦関係があり、次に親子関係があるのです。
 神が人類を創造された時に、まずアダムとエバという夫婦を創造されたことは、とても意味深いことです。
 夫も妻も、その愛情をまず妻に、そして夫に注ぐのです。子供はそのおこぼれで十分です。それがちょうどよい愛の量なのです。
 この母子癒着の問題は、社会の大きな問題でもあります。子供はへその緒を切られて産まれたましたが、その後、精神的なへその緒をもう一度つなぎ直されてしまった状態なのです。
 夫婦が分裂すると、父性と母性も分裂します。すると切り離すこと、子供をペットではなく人格者として受け入れるということが難しくなってしまいます。

 子供の人格は、受容されることと、手放されることによって健全に成長していきます。それを「父性と母性」という形で表現しました。
 どうしたら、私たちは父性と母性という相反するような性質をバランスよく持つことが出来るでしょうか。
 これは、頭の中の理論で行動できような性質のものではないかもしれません。

喜び

 実際に見て、聴いて、触れて、体験の中で体得していくものだろうと思います。そのためには、父性と母性という「神のかたち=人格」の大本である神との人格的関係が不可欠です。そしてこれは福音です。
 もし自分の両親から、そのようなバランスを受けることが出来ていない場合でも、私たちは神と共に歩み、神との人格的な関係を持つことによって、自らの人格も回復してくるのです。
 神の中にこそ、完全な正義と、完全な愛があるのです。畏ろしいけれども、慕わしい。その愛の中でありのままでいられるのですが、同時に神を畏れている。そんな体験は、キリストによって、神との関係を回復するところから始まります。  
文:関 真士

ひよこの会
  • 日時;木曜日  第一、第三
    午前9時半~
  • 会場;HCC牧師館
    (ハワイ大学の近く)
    2207 Oahu Ave. Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

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