HCC ひよこ19

HCCJapan.org| 戻る| 小冊子リスト| 集会案内| 写真| ニュース| メッセージ| ボイス|


ほめて育てる(ひよこ19)
 さて今回は、子供をほめることについて考えてみましょう。
 よく「ほめて育てる」ということが言われます。
 特にアメリカなどでは、ほめて育てることが基本のようですが、日本では逆に「否定して育てる」のが基本のようです。
 特に技術系の修業の世界や、スポーツ根性の世界など、めったにほめるということはありません。
 それでも、ずいぶんと「ほめて育てる」という価値観が日本にも浸透してきてはいるようですが、総じてほめるのは苦手ですね。
写真・ひよこ
 「ほめる」ということは、良いものは良いと言ってあげることです。当たり前のことのようですが、それが以外と出来ないのです。日本では「うちの愚息が」とか、「愚妻が」などと表現することがあったり、人前で自分の子供をほめるということをしないで、あえて悪く言ってみたり、なぜでしょうか? 皆さんは、本人にはもちろん、人前でも良いものは良いと我が子をほめることが出来るでしょうか?
 この心理について分析している心理学者の言葉を読んだことがありますが、これは、妻も子供も、自らと一体であると考えている。だからほめることは自分をほめることになるので、あえて謙遜?な態度を取るのだということです。
 なるほど、自分で自分をほめるのは気が引けますね。ということは、親子の自立が出来ていない、子供を自分の所有としてしまっていることになります。
 もし、お互いが別人格であることを自覚していたら、子供をほめることも出来るようになります。それは自分をほめることではありませんから。

子供は親によって育てられます

 また、ほめることが苦手であるもう一つの理由があります。
 「出る杭は叩かれる」と日本のことわざにあります。これは、垣根などを作るのに杭を並べて打っている状況です。一本一本の杭の高さが違って、でこぼこしていると確かに見た目が良くないですね。高さを揃えてるためには二つの方法があります。
 低い杭を伸ばして合わせるか? 高い杭を叩いて合わせるか?
 普通は、叩いて合わせようとします。その方が簡単ですから。伸ばすのは手間がかかります。
 ここには、皆が同じでなければならないという典型的な日本の価値観があります。同じにするために叩くのです。ほめることは、皆より突出することになります。
 その行為自体は良いことでも、目立つこと、皆と違うということにおいて、それは悪いことなのです。
 以前に日本の電車でお年寄りに席を譲ることが出来るかどうか話ました。それを聞いたある方が話してくれました。
 その方は中学二年生までそれが出来たそうです。なぜなら身内に体の不自由な方がいて、小さい時から自然と弱者を助けることが身についていたからです。
 ある時、電車でお年寄りに席を譲ってあげたところ、大変に喜ばれて、名前と学校名を聞かれたそうです。
 その後、学校に連絡がいき、学校側も嬉しかったのでしょう。全校生徒の前でその素晴らしい行為を名前を発表されて賞賛されたのです。

優秀な子

 その時から、席を譲ることができなくなったというのです。そして、私たちもそうですが、なぜか「すみません」と謝ってしまうのです。
 どうしてでしょうか? それは一本の杭だけが高すぎたからです。行為自体は良い事でも、目立つことにおいては悪い事なのです。
 もっとはっきり言ってしまうと、ほめられることは悪いことなのです。
 この価値観の根底にあることは、個人の人格を尊重することが出来ないというところにあります。
 我が子と自分は一体ではないのです。杭の高さが違ってバラバラでいいのです。皆が同じである必要はないし、事実同じではないのです。
ほめて育てる

 ほめて育てることは、良いことです。ほめられることは、大人でも嬉しいものです。皆さんは、なぜほめられると嬉しいのですか? やる気が出るのですか? 確かに子供はほめられると伸びます。それは大人も同じです。
 誰にほめられるのかも大切です。特に親、そして先生のように、子供に対して権威を持った立場にある人からほめられると、それは大きな影響を与えます。
 私は、小学校六年生の時に、社会の授業の時に、担任の先生がみんなの前で「関は社会が出来る」と言ったのです。今でも鮮明に覚えています。
 そのたった一言が、私を社会科大好き人間にしました。そして自分は社会科が得意だと思い込みました。中学生の時でも社会科だけはテストでいつもクラスで一番でした。
 この文を書きながら両親からほめられた記憶を辿っているのですが、思い出せません。逆はいくらでも思い出せるのですが、ほめられた記憶は出てきません。
 ちょっと悲しいですね。そのことがどのように影響するかと言うと、私の場合は、「ほめられるために」という生き方に結びついていったように思います。
 以前にも私の人生のテーマは「人の評価」であったと言ったことがありますが、ほめられたことが無いということも、その生き方を増長させたのは間違いないでしょう。
 しかし、今は、天の父から、計り知れない愛、永遠の愛を頂いているので、ほめられるための生き方は終わりました。
 「ほめる」それは、祝福することです。その存在を祝福し、存在の価値を認めることです。
 どうぞ、子供をほめてあげましょう。一日のうちに、一つでも何かほめるべきことを見つけてあげて、それを伝えてあげましょう。
 以前にお話しましたが、子供は潜在的に自らの存在に不安をもっているのです。自分の存在の価値を確認したくてしかたないのです。ほめることは、子供に自分が今ここに存在していることは、最高に価値あることだという自覚と自信を育てることになります。

祝福が大事です

ほめると
おだてるの違い

 さて、ここでほめることとおだてることの違いも考えてみましょう。
 「ほめ殺し」という言葉がありますが、ほめることと、おだてることは違います。おだてることは、そこに明らかな親の意図があります。
 「猿もおだてりゃ木に登る」とばかりに、親の意図した通りに子供をコントロールするためにほめるのであれば、それはおだてているのであって、ほめ殺しになります。
 子供が習い事をしている横で、親が必死になって子供をほめている光景を見ることがあります。そのような時は、決して目はほめていません。子供にもっと頑張れ、もっとうまくなれ、失敗するなと、そのために言葉はほめているけれども、目は怖い目をしています。子供は決してほめられている喜びは感じていません。
 むしろその目からは、プレッシャーを感じているはずです。
 おだてることは、結局コントロールです。それがほめているのか、おだてているのか、その違いは、そこにコントロールがあるかどうかで分かります。親が自分の意図した通りに子供を導くためにほめているのであれば、それはおだてです。おだてている時には、間違いなく心ではほめていません。
ほめては
いけないこと

 もう一つ、ほめてはいけないこともあります。ほめることが間違っていると、いよいよ子供を追い詰めることもあります。
 無理やりにハイと言わされて、無理やりに弟に譲らされて。あるいは、周囲に合わせて自分を押し殺すことが出来て、仮面をかぶった偽りの自分を「ほめられる」ことは、いよいよ本人を追い詰めます。
 本来、ほめられるべきことではないことをほめられると、子供は混乱します。ほめられているのに、なんで自分はこんなに苦しんだろう。本当の自分はそんな自分ではないのに、ほめられることによって偽善的な自分に嫌悪感をいだくようになります。

 私たちは、何をほめるのか? が大切です。

 ある方は、小学生にして、母親が病気で長期入院してしまいました。弟の面倒をみるために友達と遊んだりすることができなくなりました。母親の役割をするようになりました。
 こんな時に、周囲の大人は「何て偉い子なんだろう」とほめます。しかし、このほめ言葉は、本当はまだ子供でいたいという本音を押し殺し、ますます偉い子を演じさせるようになってしまいます。
 ほめるよりは、むしろ「もっと友達と遊びたいだろうに」と子供の気持ちを分かってあげた方がいいでしょうし、励ましてあげたらいいですね。

親子のつながり

 「良い子だね」とほめるとき、何を根拠に「良い子」と判断しているのでしょうか? その判断基準が大切です。
 要は、子供が人格を抑圧すること、それがほめられてしまうと、子供は大きく混乱します。
 もちろん悪い行為をほめるのは論外です。
 結局、ほめるということは、親自身の価値観が問われることになります。正しい価値観を持ってほめること、何をほめるのかがとても大切なこととなります。

勝利への秘訣

ほめ上手になるには

 悪いところを見つけてそれを指摘し、まるで打ち叩くようにして育てるのか? それとも良いところをみつけて、そこをほめて伸ばそうとするのか? 
  皆さんは、子供を見る時に、良いところに目が向きますか? 悪いところに目が向ききますか?
  もちろん、良いも悪いも、両方を見なければなりませんね。どちらか一方に目をつむるような、見て見ぬふりは誤魔化しですから、良くないことです。
  実際にどうなのでしょうか? ある場合には、悪い所ばかりに目がいって、とにかく怒ってばかりだということもあるでしょう。
  しかし、ほめ上手になるために、見方を変えることです。

 あるカナダ人の方がパズルを作ったそうです。千ピースで富士山の写真のパズルだったそうです。大変な労力をかけてとうとう完成という時に、一ピース足りないことに気がつきました。しかも富士山の頂上付近のピースでした。失くしたのか、不良品なのか、いずれにしても足りません。
 しかし、せっかく九九九ピースまで作ったのですから、額に入れてそのまま飾ったそうです。
 ある時、友人が訪ねてきました。そしてその額のパズルを見たとたんに言ったそうでうす「一ピース足りない、おかしい!」と。
 人は、九九九ピースあるということよりも、一ピースないことに目が向いてしまうものですね。
 でも視点を少し変えるだけで、見ているものは、まるで違ってきます。悪いところばかりが目にいくのは、決して良いところがないわけではなく、ただ良いところを見ていないだけなのかもしれません。
 実際には、その悪いところの何倍も、比べものにならないほど、良いところがたくさんあるのだと思います。
 それでは、どうしたらその良いところを見ることが出来るのでしょうか? 視点を変えることが出来るのでしょうか?

 いくつかのヒントを挙げてみましょう。

子供の長所を見抜く

  • 価値観を正しく持つ
    ――悪いと思っていることが、実は良いことである。

  • 子供は別人格
    ――子供をほめることは、自分をほめることではない。

  • 比較しない
    ――周囲と比較しないで、我が子だけを見る。みんな違って当たり前。

  • 恵みを知る
    ――元気なだけでありがたい。その存在に感謝しよう。

  • 子供の味方は親だけ
    ――野次るのは敵に対してすること、味方には応援団長で。

  • 子供の成長に目を留めよう
    ――新しく出来るようになったことを見逃さないで。
 一言で言えば、天の父が、自分を見ているように見るということです。
 子育ては、自分育てです。私たちは、子育てを通して多くのことを学びます。その最も素晴らしい学びは、自分も天の父の子供として、育てられていることを知ることです。
 子育ての真のモデルは、聖書に記されている天の父なる神様です。

 天の父は、決して悪いところに目をつぶるようなことはしません。しっかり見ています。  しかし、それでもなお、
 「わたしの目にはあなたは高価で尊い
     わたしはあなたを愛している」

 

(イザヤ43:4)

 「わたしは永遠の愛をもって、あなたを愛した。」
 

(エレミヤ31:3)
 
と言われます。

ロバに乗ったイエス様

 ほめるということは、ただその行為に対してほめるということ以上に、その存在を祝福することなのです。
 つきつめれば、行為としても、点数としても、たとえ0点であっても、それでもほめることができる。それは存在自体が、愛され、祝福されているからです。
 私たち自身が、まず天の父の子供として、そのようにほめられています。
 ならば私たちも、我が子の存在の尊さ、ここに今共に生きていることの恵みを知るときに、ほめることは尽きないのではないでしょうか
 ほめられた時の、あの子供の目の輝き、キラキラしています。あの輝きを絶やさないように、もっともっと、ほめてあげましょう。  
文:関 真士

ひよこの会
  • 日時;木曜日  第一、第三
    午前9時半〜
  • 会場;HCC牧師館
    (ハワイ大学の近く)
    2207 Oahu Ave. Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

★どなたでも、ご自由にご参加出来ます。