キリスト教について

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●ステップ@ なぜ今ここに生きているのか?
始まり
 自分は、なぜ? 何のために? ここに存在しているのか?

 現在、この世界の成り立ち、人間の存在を説明するものは、大きく分けて二つしかありません。
 一つは神が全てを造られたという創造論です。
 「はじめに神は天と地を創造された」(創世記1章1節)
 という聖書の言葉に基づいた考えです。

 もう一つは、この世界は偶然に進化して出来たという「進化論」です。

 このどちらの価値基準に従って生きるかによって、私たちの生き方は大きく違ってきます。
 もちろん、私たちは、普段から**論などということを意識して生きているわけではありませんが…、

 マノア渓谷に吹き渡る貿易風をお腹一杯に吸い込んで、「ああ何て美味しい空気だろう」と今日も感動します。
 でも、その風がどこを通って来たのかは分かりません。
 価値観というのは、空気のようなもので、その源がどこから来たのか分かりませんが、でも確実に吸い込んでいるものです。
 まず、進化論がもたらす価値観について考えてみましょう。

時の流れ

進化論
 まず進化論ですが、この説はあくまでも仮説であり、いまだ証明されていません。しかし特に、日本で教育を受けたものは、進化論があたかも真実であるかのようなイメージを持たされます。それほど日本は世界でも珍しい進化論支持国なのです。上野の科学博物館に行きますと、一階、二階と階ごとが進化の過程の通りに作られています。ここまで進化論を支持する理由は何なのでしょうか?
 なぜ、そのようなことが起こるのでしょうか? それは進化論がもたらす世界観、価値観が、戦後日本の高度成長を支える上で有益とされたのでしょう。しかし、この世界観、価値観に基づいた教育、そこから生じた社会が破綻していることは、周知の事実です。
 しかし、日本で教育を受けた者でも、普段から進化論を本気で意識している人はそう多くはないでしょう。動物園の猿を見て、あの猿はいつ人間になるのだろう? と漠然とした疑問を持つくらいです。

 進化論は、いまだ証明されていない仮説に過ぎません。そのような不確かなものに基づいて、私たちの存在の説明がされてしまうことに大きな問題を感じます。

さる

 進化論のいくつかの特徴を説明しましょう。

 まず「偶然」です。
 進化論の特徴は「偶然」ということです。全ての存在には意図されたものはなく偶然なのです。ですからその存在は、無意味、無目的となります。
 たまたまアミノ酸からアメーバーになり、ミトコンドリアになり、それが水中生物になり、たまたま陸にあがった魚が生き延びて、たまたま両生類になり、たまたま哺乳類になり、猿になり、たまたま人間になった、ということです。
 すべてが突然変異であり、たまたま偶然なのです。そうなると今の私という存在も、たまたま今存在し、たまたま死んでいくということになります。

 昔ソ連において次のような拷問が行われていたそうです。囚人に穴を掘らせます。その穴から出た土で同じ穴を埋めさせます。また同じ穴を掘らせ、同じ土で埋め戻します。もう一つは、バケツの水を隣のバケツに移します。その水を元のバケツに戻します。またその水を隣のバケツに移します。これを延々と繰り返します。囚人はどうなるでしょうか? 気が狂ってしまうそうです。これは拷問なのです。
 つまり人間にとって、意味の無いこと、目的の無いことを繰り返すことは、拷問に等しい苦しみなのです。
 もし無意味、無目的な人生を歩んでいたら、やがて心が病むのは当然といえば当然なのです。

人間

 もう一つの特徴は「優劣」ということです。、進化論は、より優れているものが生き残り、劣っているものは淘汰されると言います。
 この思想の影響のもとに、民族浄化などという言葉が戦争中に使われました。民族的な優秀さを保つために、劣っている者たち、異なった民族の者や、身体の障害者、精神病者などは、全て抹殺された歴史がありました。しかし、それは進化論的な価値観から言えば、当然のことになります。劣っているものの存在は、存在する価値がないのです。やがて淘汰され歴史から消えていくのですから。
ここで大きな問題となるのは、優劣をどこで計るかということです。その線引きは誰が決めるのか? 多くの場合、それは数字です。特に教育の面においては、偏差値という数字によって、その優劣を計りました。常に数字というものが計りとして使用され、人間の価値も、数字で計られました。
 そして、常に周囲との比較の中で、自分の存在が計られ、その価値が決定されてしまいます。
 この価値観に基づく生き方の問題点は、優劣の比較には終わりがないということです。常に競争し続けないと自分の存在が淘汰されるのですから命がけです。そんな中で、もう走れない、もう頑張れない、という悲鳴があちらこちらから聞こえてきます。
 ある進学校の成績一番の子供が自殺をしたそうです。その遺書には「いつ二番になるかと思うと怖い」とあったそうです。
 進化論的な世界観や価値観に基づいて社会を構築してきた日本、そこで生活する人々の心が行き詰まっているのはある意味で当然のことです。それは、日本を世界第二位の経済大国にするためには役に立ちましたが、心を豊かにすることは出来ませんでした。
創造論
 創造論とは、文字通り神によって世界が創造されたということです。

 造られた、というからには、造った方がおられます。進化論者も、さすがに偶然では、この世界の成り立ちを説明できずに、サムシンググレートやインテリジェンスデザイナーといった言葉で、何だかの存在がなければこの世界の成り立ちを説明することが出来ないと気づいています。

 しかし、聖書は最初から、「神が天と地を創造された」と語っているのです。
 またヨハネ福音書1章3節には「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」と語っています。
 人間に関しても「神は人を、ご自身のかたちに創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記2章27節)と語っています。

 この世界も、人間も、神に造られたものです。偶然ではないということです。

 ある学者が述べていました。人間が偶然に出来る確率は、「ゴミの埋め立て場に竜巻が起こり、たまたま巻き上げられた物がぶつかったりしながら、終わって見たらコンピューターが一台出来ていた。」ということだと。
 つまり有り得ないということです。今、皆さんの周囲を見てください。そこにあるもので偶然に存在する物があるでしょうか? 目の前にある机、椅子、ノート、ボールペン…。ノートなど実に単純なつくりですね。でも、ゴミの埋め立て場に竜巻が起こって、たまたま白紙の紙があり、同じサイズで、同じ紙質で、たまたま50枚あり、それがたまたまぶつかって、たまたまそこに接着剤があり、そのふたが開いて、たまたま紙の端について、そこにノートが完成していた、ということです。そんなことは何億年かかっても出来ません。ましてや、この人間というどんな精密機械もかなわない、この人間の身体、さらに心も含めて、偶然に出来るわけがないのです。
 創造論の特徴は、まず「必然」です。偶然ではありません。人間が作ったものには、必ず意味と目的があります。前述のノートもペンも、すべてそうです。
 神が人を造ったということは、人の存在には意味と目的があるということです。
 まず、その存在の意味、意義と言った方がいいかもしれません。人間の存在の意義は、「愛される存在」ということです。
 「神は愛です」これは聖書の中心メッセージです。神は愛そのものです。愛とは名詞ではなく、動詞だと言われます。確かに愛があっても、愛する対象がいなければ、それは愛として認知されません。
 神は、愛する対象として人間を造られたのです。
 ですから、人間は愛されないと生きていけないのです。もともとが愛されるべき存在として造られたからです。

コンピューター

    また創造論は、オンリーワンの価値観です。優劣でも比較でもありません。神は比較をしません。1人1人の顔が違うように、それぞれに個性を与え、ユニークな存在として造ってくださいました。

    私も長い間、人の目を気にしながら、常に人の評価を意識しながら生きてきました。人にどう思われるかが私の人生のテーマでした。私は、自分を失い、他人や世間や流行が私の人生の主人でした。
    そんな私がある時、次の聖書の言葉に出会いました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)

    この時、初めて人の目ではなく、神の目を意識しました。すると、神は、こんな私をも、かけがえのない宝物として見ていてくださる。愛に満ちた眼差しを感じました。

ひまわり

 私は、劣等感の塊でした。自分が嫌いで、セルフイメージは相当に低いものでした。しかし、神は、そんな私を「高価で尊い、愛している」と言ってくださる。神の目を意識した時、私は人の目から解放されました。その時、私は自分を取り戻しました。本来の自分の人生を生き始めたのです。
 私は、長男が生まれたときのことが忘れられません。新生児室に、他の新生児と一緒に並べられていました。窓ガラス越しに初めての我が子をじっと見ていました。言葉に表現できない暖かい気持ち、厳粛な気持ちになりました。じっと見つめていると、我が子が目の中に入ってきました。そんな感覚でした。「目の中に入れても痛くない」これは本当だと実感しました。
 神は、私たち1人1人をそれこそ「目に入れても痛くない」ほどに見つめ、愛していてくださいます。 ましてや、優劣などありません。
 坂の街で有名なのはサンフランシスコです。私はある時、そこで1番高いビルの最上階にあるレストランに行きました。窓越しの眼下に拡がる街並みを眺めていると、隣の友人が「何か気がつかないか?」と言います。何のことか分かりませんでした。
 その友人は「下では、あんなに急な坂があったのに、上から見ると全てフラットに見えるよ」と言ったのです。本当にそうでした。

 私たちは、どうしても他人と比較しながら自分の価値を確かめたりしがちです。しかし、神から見たら、そこには高い低いといった比較はなく、ただ存在だけがあるのです。
 そして、神の目に写っている存在は、「高価で尊い」という神に最高傑作品として造られた「あなた」なのです。

砂に書いた「愛」

●ステップA 自分を生きていますか?

神の形

 人間は、ただ人間という生き物として造られただけではなく、聖書は「神のかたち」に造られたと言うのです。
 この「神のかたち」とは、人格のことです。人格とは、自分で考え、自分で判断し、自分で選択し、その結果を得るという主体性のことです。それに性も人格の1部として考えることが出来ます。さらにその人格は、言葉と感情によって表現されるわけです。
 私たち人間は、神のかたち、つまり人格的存在として創造されました。
 あなたは、人格的に生きているでしょうか? この問いの言葉を言い換えると、あなたは、神に造られた者としての、歴史上たった1人の自分を生きているでしょうか? ということになります。
 自分で考え、判断し、選ぶ、そこには選んだ結果が生まれます。それが自分の人生であり、生きていることです。これは当たり前のように思えます。しかし、その当たり前の生き方ができない時、私たち人間は最も痛く傷つくのです。
人格の抑圧

 現代、特に日本社会に起こっている問題の多くは、この人格という言葉をキーワードに解き明かすことができます。
 人間は、神のかたち=人格的な存在として造られました。ですから、自分で考え、判断し、選び、その結果を得ていくということは、自分の人生を生きている実感をもたらします。
 しかし、もし人格が抑圧されたら、どうでしょうか? もし考えることが強制され自由に考えることが禁じられたら? 判断することが強制され、自由に判断することが禁じられたら? 選ぶことが強制され、すべて他の何者かによって支配されたら? 1分間も耐えることは出来ないでしょう。
 人間にとって最も幸せなことは、自分の人格が尊重されるということです。逆に最も辛いことは、人格が否定されることです。

抑圧

    しかし大きな問題なのは、日本の社会全体が人格の抑圧を善とする文化があるということです。

     島国日本では、集団の和を保つためには、個人の人格を抑圧してしまうという傾向があります。
     例えば、日本では企業が不祥事などを起こした場合、記者会見などで決まって言われるセリフが「世間をお騒がせして申し訳ありません」というものです。何が悪いのかというと、世間を騒がせた、つまり和を乱したことなのです。
     日本の社会では、周りに合わせて自分の考え(人格)を抑えることができて初めて大人になったと評価され、もし堂々と皆と違う意見を述べたりすると大人気ないと言われてしまうのです。
     それに対して、欧米では自分の意見をはっきりと言えない人は、心の病とみなされ、カウセラーを紹介されます。ある方が、アメリカ人の小学校1年生の子供は、大統領の前でも自分の意見を述べることが出来ると言っていましたが、確かにそうだろうと思います。
     日本で「良い子」が事件を起こします。でもその良い子は、親から、世間から見ての良い子です。つまり、それだけ人格を抑圧し、周りに合わせて生きてきたのです。
     親の言うことに「ハイ」と言わされ、絶えず世間の目を気にして生きることを強いられてきたのです。

     しかし、神に造られた人間である以上、自分を生きること、自分を表現することを求めて続けているのです。ボールを水の中に強く抑えて沈めれば沈めるほど、勢いよく飛び出すように、人格は抑圧されればされるほど、爆発的に飛び出してきます。それが「切れる」ということです。

自己嫌悪

 私も以前は、悪い人でもあり、良い人でもありました。私の生きるテーマは、「人にどう思われるか」ということでした。
 ある時期には、人と違った格好や態度をすることによって人からの注目を得ようとしました。その時には悪い人でした。
 またある時には、人に合わせることによって相手から良い評価を得ようとしました。その時には良い人でした。
 思春期の時には悪い人でしたが、大人になってからは良い人になりました。見た目は正反対ですが、根っこの心は同じでした。
 良い人の時には、今日は絶対に断るぞと心に決めて出かけても、その時になると笑顔で「ハイ」と言ってしまう。ノーと言えない自分になりました。その自分が嫌で嫌で自己嫌悪の塊のようでした。
 自分を生きることが出来ないということは、言葉で表現できないほど辛いことです。
 会う人ごとに、顔を変えている、つまり仮面を取り替えているので、しまいには笑っている自分と怒っている自分と、どちらが本当の自分の顔かも分からなくなってしまいました。

 現代は「ひきこもり」と言われている人が150万人を超えています。部屋から外に出ることが出来ないのです。「ひきこもり」の専門家でありカウンセラーの服部雄一氏は、日本人の8割以上が「潜在的なひきもり」だと指摘します。
 それは、実際の部屋にひきこもっているわけではないが、心の部屋に本当の自分を引きこもらせている状態だというのです。

悩む

    まさにそれは、普通の日本人の姿です。そうでない人、つまり自分を生きている人。自分の考えや、判断、選択を自分の言葉で表現する人は、変わった人、困った人となってしまいます。

    実際のひきもりの親は、まず間違いなく潜在的なひきこもりであると言われます。
    私もまさに潜在的なひきこもりでした。本当の自分を隠して、偽りの自分を生きていました。それは本当に辛いことでした。

    せっかく、神様の最高傑作品として造られたはずなのに、その自分を生きていなければ、それは何という損失でしょうか?

    どうしたら私たちは、神に造られた本来の自分を取り戻し、人格的に生きることが出来るのでしょうか?

●ステップB 回復への道

聖書

私たちは、神の最高傑作品として造られました。しかし、なぜか、その自分を生きることが出来ないのです。
聖書の創世記という書に、その答えが書かれています。
神に最初に創造された男性、彼の名はアダムと言います。そして女性の名はエバです。

2人はある時に、悪魔の誘惑にかかり、食べてはいけないという木の実を食べてしまいました。
その行為は、神に逆らうという行為であり、そのことを聖書は「罪」と表現します。
罪人になった2人が、最初にとった行動は、いちじくの葉で身体の1部を隠し、さらに木の陰に身体すべてを隠すということでした。
つまり「隠れる」ということです。なぜ隠れたのかと言えば、それは「恐れ」たからです。
何を恐れたのでしょうか。それは神からの刑罰です。してはいけないということを行ってしまったので、当然そこには刑罰があります。

    ある時、3歳になる次男が、隣の部屋で静かにしています。子供が静かだと親はヒヤッとするものです。そっと覗いてみるとカーテンの裏でゴソゴソしています。
    カーテンを開けると、そこに口をチョコレートだらけにした顔が私を見上げました。
    「ご飯前にお菓子を食べてはいけない」というきまりを破ったことは本人がよく分かっています。だからカーテンの陰にいるわけです。

    「チョコレート食べたの?」と聞いても「食べてない」の1点張りです。最後に「チョコ美味しかった?」と聞いたら「うん、美味しかった!」と満面の笑顔で答えました。

    私たちは、悪いことをしたら隠すというのは本能的なものかもしれません。なぜなら、そこに刑罰があるからです。

アダムとエバが木の陰に身を隠して以来、私たちは、「恐れて、隠れる」のです。
私たちは、木の陰ではなく、自分のプライドやキャリヤ、外見的な美しさや強さの陰に隠れてはいないでしょうか?
なぜ本当の自分を隠すのでしょうか?

恐れているからです。
何を恐れているのでしょうか?
裁かれることです。

    怒られたら、恥をかいたら、拒絶されたら、
    ノーと言われたら、  どうしよう…。

太陽と木

    木の陰で隠れているのですから、そこにはもはや健全な関係を築くことが出来ません。神との関係が壊れてしまったのです。同時に人間関係も壊れてしまったのです。本当の自分を隠しながら持つ関係とは、やはり本物ではないでしょう。

十字架

さて、その木の陰から出て、本当の自分を生きるためには、どうしたらよいのでしょうか?
木の陰から出てくるためには、何が必要でしょうか? それは絶対に裁かれないという保障です。

    その保障を与えてくれるのが、
      イエス・キリストの救い
              なのです。
裁かれない保障がここにあります。それは、イエス・キリストが十字架で、私たちが受けるべき裁きを身代わりとなって受けてくださったからです。
ここに「赦し」があるのです。
     なぜ十字架が愛のシンボルとして私たちの首元を飾るのでしょうか? 十字架は生きてる人間が磔にされる残酷な刑罰です。
     イエス・キリストは、志半ばで殺されてしまったのではありません。確かな意志をもって、自ら十字架にかかったのです。

     聖書に次のような言葉があります。
     「そして自分から十字架の上で、私たちをその身を負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」(Tペテロ2章24節)

     「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が、罪に定められることは決してありません。」(ローマ8章1節)

イエス・キリストの十字架は事実です。ですから、私たちは決して裁かれることはないと言えるのです。
ならば、私たちは本当の自分を隠すことなく、ありのままの姿で神の御前に出ることが出来るのです。そして本当の自分を生きる力を得るのです。

「愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを締め出します。」(Tヨハネ4章18節)

神は、ご自身のかたちに造った人間が、本来の自分を取り戻して生きることが出来るようにしてくださいました。
その神の方法は、神ご自身であるイエス・キリストが十字架で私たちの罪の裁きを身代わりとなって受けてくださるということでした。
ここに神の愛があります。ただの罪人に過ぎない私たちを、、無条件で一方的に愛してくださって、その命を捨ててくださいました。
その愛は、私たちから恐れを締め出します。決して裁かれないという確かな平安を与えてくれます。

イエス・キリストを信じるとは、この救いの事実を感謝して受け入れることです。
自分を隠し、偽り、神の愛を知らずに、あるいは背を向けて生きてきたその生き方をやめ、神に愛され、赦されている自分を生きることなのです。

神を褒め称える

●ステップC 新しい人生
     イエス・キリストを救い主として信じて受け入れる時、私たちは新しく造られた者となります。

     「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。、全てが新しくなりました。」

     過去を振り返れば、そこには赦しがあり。将来に思いを向ければ、そこには希望があります。

愛されている子供として生きる  「ですから愛されている子供らしく、神にならうものとなりなさい。愛のうちに歩みなさい。」(エペソ5章1節)

 新しい人生は、どれだけ自分が神に愛されているのかを発見する連続です。
 自分の弱さ、罪深さを知るたびに、それでも愛されている、まだ愛されている、その愛の深さ豊かさに圧倒されていきます。

 そして、この愛は、額縁の中で収まりません。まるで大河のようにして流れていきます。その流れは、周りの人に及び、全ての人を生かすのです。

 新しい人生には、恐れはありません。生きる動機は恐れではなく、愛となります。
 そこに神との愛の関係が回復します。それは前述した人格的関係の回復です。
 人格的関係とは、ことばによる関係です。聖書を通して神のことばを聴き、祈りを通して神に語りかけるのです。単なる教えではなく、理論ではなく、神の現実がここにあるのです。
 人格とは、人格に影響されます。人格を変えるものは、人格だけです。私たちは、神との人格的な関係を通して、自らの人格が豊かにされていくのです。
 その神との関係は、人間関係にも拡がっていきます。人間関係の中で受けた傷、痛み、それらが癒されていきます。愛の力が人と人との間に働き始めます。
 神との人格的な関係を持つために、聖書と祈りの生活を大切にしましょう。それらを通して、私たちは神の人格と触れ合うことになるからです。

関係が回復する
神を第1として
 新しい人生は、神を第1とする人生です。人生には、優先順位が大切です。自分中心から神中心の生き方に変わるのです。

 絶えず、神の心を求めていきましょう。物事の判断基準や、生活の中心に神を置きましょう。
 毎週日曜日の礼拝は、神を第1として生きるという証です。出来る限り礼拝を大切にしましょう。

 神を神として、神を第1として生きるとき、第2、第3のものは備えられます。しかし、第1のものを第2、第3にすると、それはボタンの掛け違いとなってしまいます。

 礼拝の中で、私たちは神の語りかけを聴き、愛され、赦され、癒されている自分を確認するのです。そして永遠の命への希望をもって、この人生を歩んでいくのです。

     

    「神の国とその義とをまず第1に求めなさい。そうすれば、これに加えて、すべてが与えられます。」(マタイ6章33節)

         ここから始まります。

          今始まります。

       あなたがあなたらしく生きる道を応援します。

文:関 真士
写真・始まり
  • 日時;毎週日曜日
    午前8時と朝9時20分、夜7時
  • 会場;HCC礼拝堂
    (ハワイ大学の近く)
    2207 Oahu Ave. Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

★どなたでも、ご自由にご参加出来ます。