HCC 子育て02

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神の形 (子育て02)
写真・HCC&WOCC 交歓会
人は、例外なく「神のかたち」に創造されたものです。神のかたちとは、人格のことです。人格とは、自分で考え、自分で判断し、自分で選択し、その結果を得ていく、主体性のことです。ですから、人格を支配されることは、神のかたちが傷つくことであり、人間存在の根本に影響するものです。

 そして人は、例外なく不完全な人格をもって生まれてきます。ですから子育てとは、子供の人格を回復させ、成長させることだと述べました。

人格の尊重

さて、ここで一度、子育てということから焦点をはずして、人格を尊重するということについて一般的な人間関係の中で考えていこうと思います。人格を尊重するということは、相手の主体性を認めることです。つまり、その人の考えていること、判断したこと、選択する自由を認めることです。人格とは神のかたちですから、人格が尊重されるところには、神のかたちも現されてきます。家庭の中で、人格が尊重されてくると、神のかたちが回復してくるわけですから、秩序が回復し、家庭の空気がすっきりすると言いますか、よどんでいたものが新鮮な空気に代わるような感覚がします。

人と人の間に、
人格尊重ラインとも
言うべき、
ラインを引くことが重要です。
 逆に、人格を尊重しないということの中には、洗脳型とマインドコントロール型の二つがあります。前者は、強制的に相手を自分の意のままに行動させようとするものです。高圧的、脅迫的な態度で相手に恐怖感を与えることになります。後者の場合は、もっと巧妙で、相手がコントロールされているとは気が付かない方法で、自分の意のままに行動させようとするものです。都合の良い情報しか与えない、先回りをしてレールを引いてしまう。本人の自由にさせているようで、結局は自分の囲いの中にしっかりと入れている、といったものです。

花束

また、相手を変えようとすることも人格を支配することの一つです。人は神との関係の中で、心理を選び取ることによって変えられていきます。相手を変えようとすることは、神と人との間に入り込むことになり、その人の選ぶ意思を支配することになります。さらに代弁も人格の支配の現われです。よく「みんなが言っていた」とか「あの人がこう言っていた」というものがありますが、この「みんな」という言葉はとても都合の良い表現で実際どれだけの「みんな」か分からないものです。「みんな」にしても「あの人」にしても、本人が言わないのに、代わりに言ってあげることは、言わない、あるいは言えない、というその人の意思を支配することになります。もし必要であれば、本人が言えるように励まし助けることです。

人と人の間に、人格尊重ラインとも言うべき、ラインを引くことが重要です。相手が自分の思った通りに考えない、行動しない、そのようなことでストレスを感じることはないでしょうか。しかし、人格を尊重することを身に着けると、心が自由になります。人の人格を支配するということは、実は、自分の人格も相手に支配されることになるのです。自分も人格者として相手に自分の考えを伝えることは重要です。しかし、相手がそれをどう判断し、どう行動するかは、その人の問題であって、そこまで踏み込む必要はありません。その人が判断したことについては、神ご自身が取り扱ってくださいます。神のかたちは、神の領域なのです。
イエス様は、どんな場合でも、人格を尊重してくださいました。もちろん神のかたちを傷つけることはありませんでした。追いかけることも、説得することもありませんでした。言うべきことは明確に伝えましたが、それに対して、人々がどのような選択をするかは、一人一人の自由を尊重されました。だからこそ、イエス様はいつも呼びかけます。「わたしのもとに来なさい」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」そして、自らを神の御子として認めず、去って行く人々のことを思い、涙を流されました。人格を尊重することは、時に忍耐と涙を要するものです。しかし、イエス様は、神のかたちを回復するために来たのであって、支配するために来たのではないのです。
神なき人格の危険性

人格を尊重することは、神のかたちが回復してくることです。ですから、人格の尊重されるところには、神のお働きを見ることが出来ます。
しかし、特に現代において、人々の人格がとても弱くなって来ている傾向をみます。サタンは神のかたちが大嫌いですから、なんとかして人の人格を傷つけ、破壊しようとします。信仰生活の中で、選ぶことは大変に重要なことです。神様は紳士ですから、私たちが求めないものを無理やりに押し付けることはしません。私たちが自らの意思をもって「与えてください」「受け取ります」「信じます」と告白することを待っておられます。ですからサタンは、私たちの人格を傷つけ、弱くすれば安心です。選ぶという決断が出来なければ、何も手にすることが出来ないからです。私たちの神のかたち―人格を巡って、神の回復の働きと、サタンの人格を傷つけようとする働きがあることを覚えたいと思います。

人格の回復は、自己中心になることではありません。
特に日本人は、個人の人格よりも、集団を優先させる傾向があり、個人が人格的に歩むことが困難な社会的な雰囲気がありました。しかし、時代の変化と共に、周りがどうであっても、自分の言いたいこと、やりたいこと、何でも自分の好きな通りに生きるという風潮が若者の間に見られるようになってきました。これは、決して人格が回復した分けではありません。むしろ傷ついた人格が、さらに導き手を失い、糸の切れた凧のようにさまよっている姿です。神のルールに従わない人格は、サタンの「あなたも神のようになれる」という最初の誘惑の言葉に囚われた人格です。それは自己中心です。
周りが何と言おうと、私は自分で考え、自分で決めて生きていく。それは私の権利であって誰にもそれを侵すことは出来ない、というのが個人主義者の言い分です。これは決して回復した人格の姿ではありません。神のルールに治められていない人格は、単なる自己中心です。
人格の回復とは、古いものが改善されるのではなく、キリストと共に十字架で死に、キリストと共に新しく生まれ変わった人格なのです。ですから、この新しい人格は、キリストのように変えられていく、成長していく人格なのです。そして新しく回復した人格は、他者の人格を尊重することが出来るようになってきます。「私は、こう思うけれども、あなたはどう思う?」というお互いの人格を尊重し合える人間関係を築けるようになってきます。
子供の人格を尊重する

ここで、もう一度焦点を子育てに戻したいと思いますが重要なことは、子供の人格を尊重するということは、大人の人格を尊重する時と対応が違ってくるということです。ここが子育ての難しくも、魅力的な勘所です。

子育ての場合は、人格尊重ラインを子供の成長に合わせて変化させることが必要です。
子供に対して、人格尊重ラインをどのように引くかが問題です。なぜなら、例えば3歳の子供がナイフが欲しいと言ったとしても、その人格を尊重するからといってナイフを上げることは出来ないことです。つまり子供の未成熟な人格を、親の人格で補う必要があるわけです。胎児の場合、ラインは百%胎児の人格を囲っています。新生児の場合も、まず百%です。しかし、段々成長するに従って、そのラインを少しづつ引き下げていくわけです。つまり、子育ての場合は、人格尊重ラインを子供の成長に合わせて変化させることが必要になるのです。これは大人との関係にはないことです。
ラインを引き下げるのが、早すぎても、遅すぎても良くないわけです。15歳の子供に3歳児と同じ様に、危険だからといってナイフを使わせないことはおかしなことです。逆に、3歳児に15歳の子供がしていることと同じことをさせるのもおかしなことです。
このラインの変化は、一人一人に対して皆違うタイミングがあり、マニュアル化することは出来ません。
しかし、参考に出来ることはあります。子供の成長は、右上がりにストレートに変化していくのではありません。子供はしばらくの期間、成長が鈍ったように見えます。それは次の成長へのエネルギーを蓄えている時期なのです。そしてエネルギーが臨界点に達したところで、一気に成長するのです。ちょうど竹の節のように、グラフにすると、なだらかな右上がりではなく、階段のように一気に成長するのです。この成長の時期に、親はよく「最近のうちの子、急に口答えをするようになった」「急に自分、自分と言い出すようになった」「急に生意気になった」と感じることが多いようです。これは、子供の急な成長に合わせて人格尊重ラインを一段引き下げる時期であることを示しています。そして、年令と共にラインが引き下げられ、やがて18〜22才くらいまでには、完全に他の大人と同じように人格を尊重できるまでに育てるのです。
子供が権威に挑戦した場合には、厳しく戒める必要があります。

泉の会

人格の尊重、躾と懲らしめ

 子供は成長と共に、人格が成長してきますが、あくまでその人格は、「あなたも神のようになれる」というサタンの誘惑の言葉のもとにある人格であることを忘れてはなりません。ですから子供は必ず、権威に挑戦しようとします。まず親の権威に挑戦します。人格の成長と、権威への挑戦を混同してはなりません。子供が権威に挑戦した場合には、厳しく戒める必要があります。権威者に従うことを小さい時から教えることによって、神に従うことの出来る心を育てるのです。
しかし、これは権威への挑戦なのか、人格が成長していることなのかを、見極める必要があります。
例えば、感情を表現する。自分の意思を表現する。自分の好き嫌いを表現する。いたずらをする。口答えをする。だたをこねる。などは人格の成長の一部であり、親の人格をもって補い育てていくものです。全てを許可するという意味ではなく、子供に分かるように説明し、悟らせます。特に口答えを、ただ押さえつけると、子供は自分の意思を言葉で表現することを恐れ、やがて親との人格的な会話を拒否するようになります。躾とは子供に親のいうことを聞かせることではありません。

 また子供の感情表現をただ押さえつけると、感情の処理の仕方が分からなくなり、やがて感情が不健全な形で表現されることになります。これらは親から見ていけないこと、注意し、直す必要のあること、つまり躾の対象であっても、スパンクの対象にはなりません。
しかし、親の権威に逆らうことは、厳に戒めなければなりません。子供は、二歳くらいであっても、権威に逆らうことを知っています。親の決めたことを、親の顔色をうかがいながら、いけないと分かっていてする場合があります。この時には、親に逆らうことはいけないことである、ということをしっかりと教える必要があります。
しかし、スパンク、つまり体罰はいくつかの条件をクリアした上で行われるべきです。もし、間違った体罰を加えると、大変な傷を子供の心に与えることになります。
まず、親は子供に出来る限り、なぜスパンクをされるのかを充分に言葉で説明をしなければなりません。そして子供にもスパンクを受けることを納得させます。また親は決して感情的であってはなりません。スパンクする時には冷静であるべきです。でないとスパンクと共に親の感情が伝わるからです。怒りや失望、責める気持ちからスパンクすると、子供に否定的な感情を表現するのは暴力による、ということを教えることになってしまいます。
ムチと叱責とは知恵を与える。わがままにされた子は、母に恥を見させる。

箴言29:15
またスパンクはお尻にします。それを安全であること、また子供の尊厳を保つためです。さらにスパンクをした後に、思いっきり抱きしめることです。これは愛しているからこそ懲らしめるのだと分からせるためです。またスパンクは、父親が家長としての権威をもってするべきですが、片親の場合には、例外もあるかもしれません。この条件のどれか一つでもクリアしていなければ、スパンクはするべきではありません。逆効果になるからです。
 しかし、正しい状態でスパンクをすると、子供は傷つきません。むしろ親の権威を認め、また懲らしめられても抱きしめられることによって、将来、人から注意されたり、指導されたり、叱られたりすることを正しい心をもって受け取れるようになります。それは将来、神と共に歩む人生に入れられた時に、神様と良い関係を結ぶことの出来る備えとなるのです。
文:関 真士
泉の会
  • 日時;木曜日  第一、第三、第五
    午前10時〜
  • 会場;アルファ・ハウス
    (マノア・マーケットプレイスの近く)
    2832 Lowrey ave Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

★どなたでも、ご自由にご参加出来ます。