HCC 子育て03

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喧嘩について (子育て03)
写真・HCC&WOCC 交歓会
基本的な原則

 人は誰でも神のかたちに創造されました。神のかたちとは人格のことです。人格とは人間を人間たらしめる根本的な要素です。ですから人格が傷つけられることは、人間にとって最も深い傷と痛みをもたらします。逆に人格が尊重され回復し始めると、人は活き活きとし、人生に喜びを感じられるようになってきます。

 アダムとエバが神の命令に背き、食べてはならないと言われていた木の実を食べた時、人間に罪が入りました。さて、人間が初めて罪人となった時にとった最初の行動は何であったでしょうか。聖書には「神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」と記されています。つまり「隠れる」という行為です。それでは最初に持った感情は何であったでしょうか。聖書は「私は、恐れて、隠れました」と記しています。そうです、「恐れ」です。人は一体何を恐れたのでしょうか。それは罪に対する刑罰を恐れたのです。小さな子供が、悪いことをして叱られるが怖くて隠れようとするのと同じことです。大人も同じことでしょう。悪いことを隠すのは本能に近い行為です。

しかし、神は隠れているアダムとエバを見出し、「なぜ、食べてはならないと言っておいた木の実を食べたのか」と質問されます。もう隠れることが出来なくなり、自らの罪が明るみに出されたのです。しかし、アダムは、その問いかけに対して、「あなたが、くれたこの女が私に木の実を食べさせたのだ」と答えます。エバは「蛇が私を惑わしたのです」と答えます。これらの答えは、「私が悪いのではない、女が、蛇が、悪いのだ」という言い方です。もっと突き詰めると「私は正しい、あなたが悪い」という構図です。 人類史上
最初の喧嘩は
夫婦喧嘩だったのです。
 さて、これが人類史上、初の人間関係のトラブルです。そしてその人間関係は「夫婦」という関係でした。つまり、社会に満ちている人間関係の破れ、痛みの源は、夫婦関係の破れにあるということです。人類史上最初の喧嘩は夫婦喧嘩だったのです。そして、その喧嘩の構図は「私ではない、おまえが悪いのだ」というものでした。私たちが日常的に行っている夫婦喧嘩は、実は、大変に深い意味のあるものなのです。
罪に対する
刑罰が終わった以上、
私たちは
罪から自由です。
どの人間関係の破れにも、この「私は正しい、あなたが悪い」という構図を見ることが出来ます。一歩進んで「私も悪いが、でもあなたも悪い」と言います。この「でも」を取ることは大変に困難です。あるいは強靭の意志力で「でも」を飲み込んで「私が悪かったです」と言えるかもしれません。しかし、その抑圧された思いは心に残り、別の出口を探して求めて、いずれどこかで悪い形で出てきます。また「全て私が悪いのです」と自虐的になることもあります。

 つまり、罪を持った人間は、常に何かを責めるのです。他人か自分自身か、あるいは社会を責めるのです。まさに罪というものは、責められるべきもので、だからこそ罪なのです。罪のある所、必ず「責める」ことが起こってきます。

 この罪と責めの連鎖を断ち切り、より良い夫婦関係、人間関係を築くためにはどうしたら良いのでしょうか。罪の力をなくすためには、罪を罪として裁く以外に方法はありません。罪は裁きが執行されない限り、罪としての効力を持ち続けます。犯罪を犯した人が、逃げ続けていれば罪の解決はあり得ません。しかし、捕らえられて裁判の判決を受けて監獄に入り、刑期を満了して出所すれば、もはや犯した罪はその人を捕らえることは出来ません。同じ犯罪を犯した人でも、逃げ続ける人は一生罪を持ち続けることになります。しかし、すでに罪の刑罰を受けた人は、罪から解放されて生きることが出来ます。
 しかし、私たちが神の御前で罪の裁きを受けるとしたら、「罪の報酬は死である」という聖書の言葉通りに、全ての人が滅んでしまいます。しかしイエス・キリストは、私たちが受けるべき裁きを、身代わりとなって受けて下さったのです。十字架とは、まさに刑罰なのです。イエス・キリストが救い主と呼ばれるのは、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったからなのです。ですから神が私たちの罪を赦すということは、罪の刑罰が終わったという意味なのです。罪は私たちの人生に何の力も持てなくなります。
 私たちがより良い夫婦関係、親子関係、人間関係を築くためには、神に造られた一人の人間として、「隠れる」「恐れ」という行為と感情から自由になる必要があります。この根本的なところが解決をされていないと、いくらマニュアル的に夫婦や親子について学んでも、逆にマニュアルに縛られることになります。この「隠れる」「恐れ」ということが、私たちの生き方や、心の有り様にどのように関わっているのかは、また改めて見ていくことにしましょう。
良い麦と毒麦

さて、前回にも触れましたが、人格を尊重することと権威者である親への反抗への対応を、さらに考えてみたいと思います。

子供の人格を尊重することは大変に重要なことですが、ただ子供の人格は決して、正しい形で成長するわけではありません。その行為には権威者への反抗があったり、感情を悪い形で表現したりと、躾ける必要が出てきます。人格を尊重することは、何でも全てを許可することではないのです。これは、子供の人格は未熟である、という大前提を思い起こす必要があります。

泉の会

 聖書の中に、「良い麦と毒麦」の譬話しが出てきます(マタイ13:24~30)。まさに子供の心という畑に、良いものと悪いものの両方の種が撒かれるのです。そして現代の社会は、悪い種がたくさん撒かれてしまう状況でもあります。しかしイエスは、良い麦と毒麦の両方を抜いてしまうことのないように、収穫の時期まで待つようにと言うのです。例えば、子供が元気よく家の中を走り回っています。家の中を走ってはいけない、静かにしなさいと叱ります。しかし、子供はすぐにまた走り出します。もし、子供がいつも家の中を静かに歩いていたら、逆に子供らしさを感じなくなり、かえって心配です。子供が口答えすることに対して叱ります。しかし子供が親の言うことにいつも「ハイ」とだけ答えていたらどうでしょうか。逆に心配です。私たちは、人格が成長しているからこそ起こる部分と、戒めなければならない部分を見極めていかないと、躾けと称して、たくさんの子供の良い麦も摘んでしまうことになりかねません。ですから良い麦と毒麦を明確に分けること、それが分けられるまで待つことも重要になってくるのです。いくつかのケースについて見てましょう。
 「口答え」 まず、自分の意思を言葉で表現することは、子供の成長にとって最も素晴らしいことの一つです。相手への配慮(思いやり)を持ちながらも、人を恐れず顔色を気にしないで、自分の意思を率直に言葉で表現できるようになって欲しいものです。口答えを、ただ反抗と受け取って叱りつけると、子供は自分の意思を言葉で表現することに恐れを感じ、だんだんと表現が出来なくなります。もし、その言葉の中に、親に対して使用するべきでない言葉や、間違っていると思われる考えがあるなら、その毒麦だけを抜かなければなりません。
 「感情表現」 感情を言葉で表現することは、さらに大切なことです。感情とは表現されることで消えていきます。一度もった感情は表現されない限り、その感情は決してなくなりません。心の底に溜まっていきます。感情は常に出口を求めていますから、特にそれが否定的な感情であれば、溜まった感情は否定的な形で、いつかどこかで表現されることになります。ですから感情処理能力というものを小さい時から身に着けることが大切です。
子供の人格を尊重する

 もし子供が感情を表現した時に、それを押さえ付けてしまったり、叱りつけてしまうと感情を表現することに恐れを持ち、だんだんと感情を表現できなくなっていきます。しかし感情の場合、それは決してなくなりませんから、溜め切れなくなった時、風船が爆発するような形で表現されることになります。よく聞かれる「あんなおとなしい子が突然」という表現の中に、その子供は、それだけ感情表現が出来ずに溜め込んでいたのだと、思わされます。感情は、最も本音に近いものです。ですから感情豊かに生きられるということは、本音で生きられるということでもあります。

感情処理能力というものを
小さい時から
身に着けることが
大切です。
 親は、子供が感情を表現した時に、それが喜びであれば一緒に喜んであげることです。もし否定的な感情であれば、それを抑えつけるのではなく、どうしてそう思うのか聞いて上げることです。そして、なぜ自分は怒っているのか、悲しんでいるのかを言葉で表現させてあげることです。ただ子供は自分がなぜそんなに怒っているのか分からないことがあります。そんな時は、親が子供の心を解きほぐし、自分で理解できるように助けてあげることが必要です。このように感情を受け止められ、感情を言葉で処理する能力を持つと、豊かな感情を持ちながらも、感情的ではない、抑圧でもない、非常に豊かな人間性を持つことが出来るようになります。ですから否定的な感情表現であっても、それを性急に抜いてしまうことがないようにしたいものです。

泣く

 「嘘をつく」 嘘は罪ですから抜いてしまいたいものです。しかし、そこにも良い麦が混ざっている場合があります。例えば、父親のいない子供が友達に「昨日ボクは、お父さんとキャッチボールしたんだ」と言うかもしれません。または、「ボクは、雲の上にいったんだ、そこには雲の滑り台があってね~」などと言うかもしれません。確かに嘘です。しかし、子供は時に自分の願望や、心の深いところの満たされていない思いを、そのように表現することがあります。子供が嘘をついた時、どうして嘘をついているのか、往々にして、子供の嘘の中には、大切な子供のサインがあったりするものです。まず、子供の心を言葉で表現させてあげて、その上で、必要であれば嘘が相手に誤解を与えたり、相手を戸惑わせたり、時に悲しませることを教えてあげるのです。
 「兄弟喧嘩」 争うことは罪です。だからといって一度も兄弟喧嘩をしない兄弟がいたらどうでしょうか。兄弟は時に喧嘩をしながら、人生の大切なこと、忍耐すること、謝ること、赦すこと、和解することを学んでいきます。喧嘩すること自体を止めさせるより、喧嘩を通してでしか学べないことを教える方が大切です。
 特に、「怒りの連鎖」による喧嘩であれば注意が必要です。「怒りの連鎖」とは、たとえば、父親が仕事で嫌なことがあり、ストレスを溜めて家に帰って来るとします。目の前で妻が何か失敗をします。感情は出口を見つけて「おまえは何をやっているんだ!」と思わず怒りがぶちまけられます。今度は妻が長男が宿題をやっていないことに気がつきます。感情が出口を見つけて、思わず長男を「あんたは、いったい何度言ったら分かるの!」と怒鳴ります。イライラしている長男は弟が自分の大切なおもちゃを勝手にいじっているのを発見し、おもわず弟をぶってしまいました。それをお母さんに見つかった長男はさらに怒られます。そしてぶたれた弟は、外に出て行って小さな犬を蹴っ飛ばした。ということです。もし、兄弟喧嘩が、そのようなストレスのはけ口として起こっているのであれば、喧嘩をまた怒ることは、もっと子供を追い詰めることになります。しかし喧嘩はいけません。ですからただ争いを止めさせるのではなく、子供と話し合って、その原因を言葉で表現させ、怒りの連鎖を断ち切ってあげることです。もし、親自身がその連鎖に加わっているのなら、子供に謝ることも必要です。

泣く

育てる

小さいうちに抜き取る

 さて、聖書には次のような言葉もあります。「古いパン種を取り除きなさい。」(Ⅰコリント4:7)パン種とは、最初は目に見えないくらい小さくても、やがて大きく膨らんでいくものです。良い麦と毒麦が見分けられ、はっきりと抜くべきものが分かったら、それは小さいうちから抜いてしまうことです。悪い種が芽を出し、空の鳥が巣を作るくらいに大きくなってしまってからでは、抜くのは大変な作業です。どんなに大きな大木でも、最初は人指し指でも抜けるほど小さな芽です。早ければ早いほど、抜きやすいのです。
 人格を尊重する、つまり子供とよく話し、よく聴くことをしたら、毒麦が浮き上がってきます。なぜなら人格を尊重することは、神のかたちを尊重することですから、神の光が子供の心を照らすのです。毒麦が分かったら、それはすぐに抜いてしまうことです。
 どうやって抜くのかと言うと、懲らしめることによって抜くのです。懲らしめには、言葉で理解させること、謝罪を告白させること、行いの刈り取りをさせること、最終的な手段としてムチを加えることも含まれます。そして悪い芽は早めに抜いてしまうことです。それは子供の後の人生にどれだけの幸福をもたらすでしょうか。良い麦と悪い麦が混在している時には、はっきりするまで待つことです。性急に成り過ぎてはいけません。しかし一度、悪い麦がはっきりしたら、すぐに抜いてしまうことです。その時には、毅然として懲らしめるのです。
 それにしても、言うが易し、行なうは難しです。私たちが良い親であるためには、「平安」と「聖霊の助け」が必要です。イエスは、私たちに「平安あれ」と語られ、「息を吹きかけ、聖霊を受けよ」と語られます。子育てという、最も偉大な務めを果たすために、、共に天を仰いで、神の平安と聖霊の助けを求めていきましょう。

文:関 真士
泉の会
  • 日時;木曜日  第一、第三、第五
    午前10時~
  • 会場;アルファ・ハウス
    (マノア・マーケットプレイスの近く)
    2832 Lowrey ave Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

★どなたでも、ご自由にご参加出来ます。