HCC 子育て04

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懲らしめについて (子育て04)
写真・マノアスプリング
懲らしめの内容

「愚かさは子供の心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る」(箴言22・15)

 前回述べたように、子供の心には、良い種と悪い種の両方が播かれます。良い種はいよいよ成長して欲しいものです。悪い種は、それが大きな木になってしまわないうちに、早く抜いてしまうに限ります。そして悪い種を抜く方法は、懲らしめです。

 しかし、私たち親がよく犯してしまう間違いは、つい感情を子供にぶつけてしまうことです。怒ることと、懲らしめることが混同されているようです。感情的になって怒ることが、懲らしめることではありません。人間は感情の生き物と言われます。どんなに言葉がそこにあっても、子供は怒りという親の感情にまず反応してしまうのです。子供は、感情で怒られている時には、何が悪い事なのかを理解するよりは、怒られるのが嫌で謝るのです。決して何が悪い事なのかを理解したわけではありません。ですから怒られなければやってもいいということになってしまいます。親に怒りという感情をぶつけられて育てられた子供は、怒られなければいい、という価値観を持ってしまいます。
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

聖書
 さて、懲らしめもまた人格を尊重しながら、子供の人格が成長するためになされるべきものです。懲らしめの内容とは以下のようなものです。

 まず言葉で何が悪いことなのかを理解させることです。言葉でコミュニケーションを取ることは人格的な交わりにふさわしい形です。親は感情的にならないようにしたいものです。しかし、親も感情を抑えるだけではなく、子供に対して「ママは、あなたの態度を見て、~~のように感じたの」と、親自身が感情を言葉で相手に表現することです。そして子供に、自分のとった行動は、親の心をそのように痛めるのだと理解させることが必要です。感情的にならない、ということは、感情を抑圧することではなく、感情を言葉で表現するということなのです。

 言葉で何が悪い事なのかを理解させたら、次には、告白させることです。子供に「ごめんなさい」の一言を告白させることはとても重要なことです。聖書によれば、告白とは、その人の意志の表明であり、人格的な決断でもあります。子供が悪い事が何かを理解したならば、「ごめんなさい」と告白することによって罪の赦しを得るのです。親は、子供の告白を聴いた時には、それを最大級に評価し、罪の赦しを語ってあげてください。
 「わたしは、あなたを罪に定めない。行きなさい、今からは決して罪を犯してはならない。」(ヨハネ8:11)
というイエスの言葉を語ってあげて欲しいものです。
懲らしめの内容は、
言葉での理解、
謝罪の告白、
償いの行為、
ムチを加えること。
 次に、子供に刈り取りをさせます。「播いた種は、刈り取りがある」という聖書の法則を教えるのです。例えば、何度か注意したにもかかわらず、ゲームを指定された時間外にした場合、償いの行為としてゲームを一週間禁止したりします。子供が出来る範囲の刈り取りをさせることによって、自分で選んだことには、必ず報いがあること、良い種を播けば良い刈り取りが、悪い種を播けば悪い刈り取りがあるということを教えるのです。それによって、自分の人生に責任を持つことが出来るようになるのです。

花束

 そして最後に、親の権威に挑戦しようとする場合には、最終的な手段としてムチを加えることもあります。ただよくよく注意して、懲らしめと、子供の心を傷つける虐待と混同しないように、前回挙げた諸条件をクリアした上でなされるべきものです。

 以上が懲らしめの内容です。正しく懲らしめられた子供は、平安に育ちます。そして自分自身も人格的に、他者の人格をも尊重して生きることが出来るようになります。やがて社会に出て行く時に、人の指導や注意を感謝をもって受け取り、人生の糧にしてたくましく成長することが出来るようになります。


懲らしめの目的~苦い根を抜く~

 さて、ヘブル書12章5節~15節には、懲らしめについて言及されていますが、神は愛するからこそ、民を懲らしめるのだと記されています。そして懲らしめの目的には、二つの側面があり、一つは「神の聖さにあずからせるため」(10節)これは、言い方を変えると、イエス・キリストのお姿に変えられるということです。もう一つの目的は「苦い根がはえないように」(15節)ということです。
 この「苦い根」とは何でしょうか。これは私たちの心の中にある、苦々しい思いのことです。そしてこの苦々しい思いは、まるで植物のように成長し、私たちの人生に苦々しい実を結んでいくのです。そしてその実を食べる者たちにまた苦々しい思いを与えていくことになるのです。懲らしめの目的の一つは、子供の心に苦い根がはえないようにするためなのです。

 この苦々しい思いとは、まず多くの場合、両親に対して持つものです。聖書には、「両親を敬いなさい。そうすれば幸せになる」(申命記5・16)と記されています。
 これは本当にその通りです。子供として私たちが、両親に対して苦々しい思い、つまり裁きの思いを持つ時、「裁いた者は、裁かれる」(マタイ7・1、2)という聖書の法則が働きます。ボールを壁に投げつけると必ず帰ってきます。強く投げれば投げるほど、強く帰ってきます。「量った通りに、量られる」と記されている通りです。
 苦い根とは、裁くことによって植え付けられ、やがて人生に苦い実の刈り取りをもたらします。

私たちは、
両親を敬えない
領域において
人生の混乱を
経験します。

不健全な願望

 皆さんは、結婚をする前に、理想の夫、理想の妻の条件というものを持っていたでしょうか。その理想の条件は、果たして、母親のようでない人、父親のようでない人ではなかったでしょうか。もし、両親を敬わない、つまり親への裁きがあるなら、かならず苦い根の刈り取りが人生にもたらされます。そして苦い根が芽を出してくると、不健全な願望が生じて来ます。

引張りっ子

 次のようなケースがあります。ある争いの家庭で育った方は、平和の食卓に対して強い思い入れがありました。絶対に平和な食卓にするぞという強い決心は、裏を返せば、争いをする両親のようには決してならない、という裁きの思いが根底にありました。やがて結婚しました。ある時、妻が食事中に不機嫌になります。別に日常の一こまの風景です。しかし夫はそれを受け取ることが出来ないのです。食卓でそのような態度をするな、と声を荒げてしまいます。自分を受け止めてもらえない妻もまた疎外感を感じます。そして結果として争いの食卓になっているわけです。そうなると、心の中に大きな失望感、敗北感を感じます、そして不健全な願望が生まれます。私の家庭も崩壊してしまうのだろうか、そうなって欲しくない、そのようになったらどうしようか、そのようになるに違いない、そのようになるに決まっている、という具合に、不健全な願望が発展していくのです。まるでドラマのスイッチを入れたように、まだ起こっていない事が映像のようにして頭の中に流れていくのです。そのような時には、何か目に見えない力に引っ張られるようにして、自分でも抜け出すことが出来なくなるのです。結果として、苦い根を自らが刈り取るという、悲劇が人生を襲うことになります。
 他の人であれば、何でもない態度や言葉が、苦い根を持つ人にとっては、人生の危機を感じるほどの大きな事として響くのです。「裁いた通りに、裁かれる」という法則は、人間に変えることは出来ないのです。苦い根を持つ限り、自分が一番なりたくない自分に、なってほしくない状況に、なっていくのです。なんとも悲劇的な現実がここにあります。


絡み合う苦い根

 苦い根は、結婚してから芽を出すことがほとんどです。そして、なぜかお互いの苦い根が妙に絡み合ってしまい、お互いが相手の苦い根にせっせと水と肥料を上げてしまうのです。
 父親が酒乱でつらい経験をした女性は、「父親のような酒飲みとは絶対に結婚しない」という強い願望を持ちました。そこには父親に対する裁きがあり、苦い根が心に植え付けられました。やがて、一人の男性と出会い、もちろん酒を飲まない男性と結婚しました。一方、その男性の母親は非常に批判的で、小さい頃からいつも小言が繰り返されていました。男性は、「絶対に批判的な小言を言うような女性とは結婚しない」と堅く誓います。その時、男性は母親を裁き、苦い根がその心に植え付けられました。やがて男性は、確かにその通りの女性と結婚したと思いました。

 しかし、お互いの苦い根は絡んで、悪循環の歯車が回り始めます。妻とは、どんな人でも、結婚生活の中で小言を言うものです。それは些細な小言であったかもしれません。しかし、夫にとってみると、その小言はビルの屋上で拡声器を片手に大声で叫んでいるような大言に聞こえてしまうのです。そのうち夫は、妻の小言から逃れるために仕事に没頭するようになりました。そしてたまには、仕事の帰りに一杯飲んで帰ることもありました。妻は、ある夜酒の匂いをさせて帰宅したご主人にいいようのない恐怖感を感じました。酒の匂いは、妻にとって酒乱で暴れている父親を連想させます。そして自分の家庭にお酒は存在してはならないものです。おもわず、夫を強く批判しました。夫は、ますます妻の小言や批判から逃れるために仕事に、酒場に足が向くようになります。そこまで行けば、不健全な願望が心を支配するのは容易なことです。やがて、この夫婦は自らの苦い根の刈り取りをすることになりました。自らが最もなりたくないと固く決意していた家庭に、逆になってしまいました。

引張りっ子

 もし、夫が妻の小言くらい広い心で聴いてあげていれば、妻が夫が一杯飲んでくるくらいのことに目をくじらを立てないで、自分も一緒に飲みに行くくらいの余裕があれば、しかし、裁きの法則は、苦い根の刈り取りを人生にもたらします。
 他人から見て何でもないような一言が、自分にとってはどうすることも出来ないほど心を乱すことがありませんか。あるいは特定の態度に関して、どうしよもないほど心が苦しくなることがありませんか。あるいは、自分で一番なりたくない状況になってしまうという不安が心のどこかに潜んでいませんか。その思いが発展してきていませんか。自分の人生が運命で定められているように、目に見えない力に引っ張られているように感じられることはありませんか。


人生とは

運命で
決定されている
ものではなく、
私たちが何を
選ぶかで
決定されて
いくのです。

 聖書には、「運命」という概念はありません。その代わりに「摂理」があります。「摂理」とは、英語で「プロビデンス」(前もって見る)という意味があります。つまり神は前もって「このような種を撒いたら、このような実を刈り取る」ということを見て、私たちに知らせてくださいます。そこで私たちは、どう生きるかを選び取ることが出来るのです。それは、人生とは何を選ぶかで決まるということ、言い方を変えると、人生とは運命で決定されているものではなく、私たちが何を選ぶかで決定されていくということです。
 確かに、過去を振り返る時、私たちは常に選択をして生きてました。人生は選択の連続です。今日は起きるか起きないか、。食べるか食べないか。何を食べようか。結婚しようかしないか。どこに就職しようか。生きることは、まさに選ぶことです。選んだ結果が今の状況をもたらしています。もし悪い状況にあるのなら、それも選んだ結果です。ということは、違った選択をすれば今までとは違った人生の展開を見ることが出来るということです。そして私たちは選ぶ時に、必ず選ぶ判断の基準を持っています。多くの場合、学んだ知識や経験、時代の流れによって判断していきます。今日食べたラーメンがおいしかったから、今日もまたこの店で食べようか、というような他愛もないことから、皆がしているからということで選ぶこともあります。そしてある場合には、その判断基準は苦い根に基づいていることがあります。本人は意識しているわけではありませんが、無意識のレベルで選んでしまうのです。
 ある青年は、両親に捨てられ、信頼していた友人にも裏切られ、人を信頼することが出来なくなりました。彼は、それらの人々を裁きました。その結果。彼は心の中に、「結局、人は自分を利用して、いつか裏切って行くのだ」という不健全な願望を抱くようになりました。それによって彼の場合、自分が裏切られて傷つく前に、先手を打って自分の方から身を引いてしまうようになりました。一つの自己防衛の手段です。仕事も人間関係も良い状態になっていくと、逆に仕事を辞めてしまったり、人間関係を自分から壊してしまったりするのです。それは、もう二度と傷つきたくないという自己防衛の手段なのです。結局この場合、仕事、も人間関係も、結婚も、人生の重要な場面における選択の基準が苦い根に基づいているわけです。

ベビー

 「この天地は滅びさる。しかし神の言葉は永遠に滅びない」(マタイ24・35)と記されているように、私たちの判断基準を神の言葉に置くことが一番確かではないでしょうか。もし、聖書の言葉を基準にして物事を判断し、選んでいくなら、その人生には平安があります。そして私たちは、今までの人生がどうであれ、選ぶことで、人生を変えることが出来るのです。


苦い根を抜き取る

 さて、それでは神が私たちに苦い根を抜き取るために備えてくださった恵みとはどのようなものでしょうか。それは「赦されること、赦すこと」です。「赦し」には、苦い根を根こそぎ抜き去る力があります。
 まず「赦される」ことです。苦い根を持つ人は、たいていの場合、被害者的な意識を持っています。赦すことは考えても、赦されることは考えません。しかし、両親を敬わないこと、裁くことは、神の御前に罪なのです。裁くのは無理もない状況があるかもしれません。しかし、いくら同情と共感があっても、だからと言って神の法則が変わることはないのです。この罪の悔い改めがない限り、癒しは成立しません。どんな理由があるにせよ「両親を敬いなさい」という神の命令は真理なのです。ですから自らが、まずその罪を告白して十字架の赦しを信じることです。もし、「私は神に対しても、両親に対しても罪を犯しました」と言い切れないのなら、それが本当に理解できるまで神の御前に求めてみてください。中途半端な悔い改めは後々になって状況をもっと悪くします。しかし、真実な心で罪を悔い改めるなら、福音の力があなたの人生にもたらされます。
 次に「赦す」ことです。もちろん両親を無条件で赦すことです。この場合、感情は重要ではありません。感情ではなく、意志で選び取るのです。人によっては赦し難い傷を両親から得ている人もいるかもしれません。しかし、裁きは、鎖のようにして私たちの人生を縛りつけます。赦さないで一番苦しむのは自分自身です。

赦す時に、鎖は断ち切られ、私たちの心は自由を得ます。  そして、「両親を敬う」ことを告白します。これも意志で選び取るべきものです。敬う根拠は、敬うにふさわしいからではなく、神が命じるからのなのです。それが神に造られた人間にとってふさわしい生き方なのです。もし、私たちが神の真理に従おうと心を定めるならば、聖霊が私たちを助けます。聖霊は常に神に従おうとする者たちを助けるのです。
 苦い根のパターンは、夫婦の数ほどあります。しかし、問題は複雑に絡み合っているように見えても、根は一つです。神の言葉の真理によって問題を解きほぐし、根を発見することが重要です。そして「悔い改めて、福音を信じる」ことによって問題の真の解決が得られるのです。根を探し出す作業や、悔い改めの祈りをする時、可能であれば第三者の助言を得ながら、特に権威をもった人に祈ってもらい赦しと解放を宣言してもらうことは大きな力となります。



選び続けることの重要性

 私たちの信仰生活は、聖霊の働きによってキリストの姿に変えられていくものです。(Ⅱコリント3・18)苦い根が抜き取られることは、その過程に起こってくる一つの恵みです。しかし、赦しの祈りをしたにも関わらず、また同じ思いが起こってくることを誰もが経験します。なぜなら、私たちは、そのような生き方を何年間も続けてきたので、条件反射として以前と同じことをしたり感じたりしてしまうのです。しかし、大切なことは、その時に何を選ぶかということです。私たちは真理を選ぶべきです。私たちは、キリストにあって新しく生まれ変わった者です。アダムにあっては以前の古い自分のままです。さて、キリストにある自分と、アダムにある自分のどちらが本当の自分でしょうか。信仰の戦いは、真理と偽りの戦いです。サタンは偽り者であると聖書は記しています。私たちが真理を選び取る時、「真理は私たちを自由にします。」(ヨハネ8・32)ですから同じことが繰り返されたとしても、それは古い生き方に刷り込まれた条件反射です。時間をかけて何度も真理を選び取ることによって、私たちは、新しく造られた者としての自分を生きることが出来るようになっていきます。

ベビー

 こんな話しを聞いたことがあります。何かの事故で足を切断した方がいます。しかし、病院のベッドで寝ている時に、ないはずの足が痛むのだそうです。この症状を幻視痛というそうです。実際にはないはずの足が痛む。これは患者にとってどれだけ辛いことかと思います。いくら痛くても、ない足に薬を塗ることは出来ません。存在しないものを治療することは不可能です。頭は、何年間もあった足がなくなったことをすぐには納得しなのです。この幻視痛が治るには時間が必要です。頭が足がないことを納得するまで時間がかかるのです。
 私たちの信仰生活も同じことです。すでにキリストと共に葬られたはずの古き人がいまだに生きているように感じられ、変わっていない自分に絶望したり、信仰が足りないからだ、祈りが足りないからだ、と思ってしまいます。しかし、それこそ偽り者のサタンの思う壺です。そして、すでに死んだはすの古き人に目を向けて、なんとかしようとするのですが、幻視痛と同じように、すでにキリストと共に葬られた古き人は治しようがないのです。大切なのは、私たちが真理を選び取る、つまり自分の古き人は十字架でキリストと共に葬られたことを信じることなのです。まるで、古き人が実際に生きているように感じられることがあるかもしれません。しかし、真理を選び取ることによって、やがて生き方の中にキリストのかたちが現れていくのです。
 赦しの力によって苦い根を抜き取ること、その後、真理を選び取り続けること、このことによって私たちの人生に新しい展開が起こって来ます。


子供の心を守る

 さて、私たちは親として、子供の心に苦い根がはえないように子供の心を守りたいと願います。一昔前には、尊敬する人は誰かと問われれば、まず「両親」という答えがありました。子供が当たり前のように両親を敬うことができれば、子供の人生にとってこんな幸せなことはありません。子供を幸せにしようと思うならば、子供に尊敬される親になることです。しかし、大多数の親が、私も含めてそんな自信を持っているわけではありません。しかし、私たち自身が子供の立場の時に、無条件で親が親であるかゆえに両親を敬うことを求められたように、私たちも立派であるから、子供に尊敬されるのではありません。子供は弱さをもった完璧でない親であっても、親であることのゆえに尊敬するものです。神はそのように人間関係の秩序を定められているからです。親としての自分の立場に、誇りと自信を持つことです。それは決して自らの足りなさ、弱さから目をそらすことではなく、簡単に言えば、「ありのままを生きる」ということです。子供が尊敬できる親というのは、本音で人生を生きている人です。時には失敗して子供に謝ることもあります。夫婦喧嘩をして醜態をさらすこともあります。しかし、それでも親は親です。私たちは無条件で、子供の父であり、母なのです。   

 ですから、子供の前に完璧な親を演じるのではなく、むしろ破れだらけでもいいですから、本音で、そして一心に神を見上げている姿を見せていくのです。その時は、子供は無条件で親を尊敬するものなのです。
子供が
尊敬できる
親というのは、
本音で人生を
生きている人です。


文:関 真士

泉の会
  • 日時;木曜日  第一、第三、第五
    午前10時~
  • 会場;アルファ・ハウス
    (マノア・マーケットプレイスの近く)
    2832 Lowrey ave Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

★どなたでも、ご自由にご参加出来ます。