HCC 子育て07

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自立へ向けて (子育て07)
写真・マノアスプリング
 前回は、子供が子供である時期に、早く大人になり過ぎたり、親の立場に立たされてしまうことのトラブルについて述べました。今回は逆に、子供の時期が過ぎているのに、大人になることが出来ない子供について述べてみましょう。ずいぶん前にモラトリアム症候群やピーターパン・シンドロームという言葉が流行したことがあります。ピーターパンは、一生大人にならない永遠に子供あxです。モラトリアムとは「猶予」という意味があります。つまり本来、大人にならなければならない時期であるのに、もう少し子供でいたい、大人になることを「猶予」して欲しいということです。これらの言葉が登場して10年上以上経ちますが、現状はますます大人になれない、なりたくない子供が増えているように思われます。
 いわゆる「自立」という問題ですが、前回考えたように自立が早すぎるのも問題ですが、自立できないことも大きな問題です。「すべてのことには定まった時がある」(聖書)とありますが、子育てをしていく上で、自立の「時」を見分けることがとても重要になってきます。
自立の意味

 「それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者は一心同体になるのです。」
(マルコ10:7)この聖書の言葉は、結婚式では必ず読まれる箇所ですが、特に「それゆえ」という言葉に注目していみたいと思います。なぜ人は父と母を離れるのか? つまり自立をするのか? その理由は、「神は初めから、人を男と女に造られた」からなのです。まず男(アダム)が造られ、次に女(エバ)が造られました。この男女は夫婦でした。よく日本では、夫婦は所詮は他人、血がつながっているのは子供なのだ、と言って夫婦関係よりも親子関係を優先させるような風潮があります。しかし、聖書によれば、「女は男のあばら骨から造られた」(創世記2:18〜25参照)とあり、アダムは自らのあばら骨から造られた女を見て「これこそ私の骨からの骨、肉からの肉」と言いました。これは生物学的な血縁関係以上の意味を持っています。聖書によれば、夫婦は他人以上、親子以上、まさに一心同体の存在なのです。ですから夫婦関係は親子関係に優先されるのです。もし、逆に親子が一心同体になってしまうと、前回言及したように、神の創造の秩序が乱れるわけですから、必ずそこにはトラブルが起こってきます。

景色

 ある時、二人の男女が出会い結婚するわけですが、それまでは親子関係の中で自らの存在が保たれていた者が、新しく夫婦という関係を築き始めるわけです。その時に父母を離れる(自立)ということが必要になるのです。自立とは、健全な夫婦関係を築くための大前提です。健全な夫婦からは、子供が健全に育っていくものです。そして自立をした夫婦からは自立をした子供が育ちます。
 ここで「自立」ということを二つの言葉をキーワードにして考えてみたいと思います。それは「離れる」と「結ぶ」ということです。自立とは、「離れ」て「結ぶ」ことなのです。

家族

 「離れる」ということは、何から離れるのか? それは父母からです。離れるというからには、それまでは結ばれていたわけです。特に母親とはヘソの緒によって結ばれていたのですから、意識して「離れる」ということを選んでいかなければなりません。また「結ぶ」とは何と結ぶのでしょうか。新しい妻との関係を結ぶのです。しかしそこに触れる前に、ここでは、親子関係の中で「結ぶ」ということを見ていきます。それは、一度離れた親と、もう一度新しい親子関係を結ぶということです。特にこれは結婚を機に決定的、最終的になされます。もちろん結婚が全てではありませんが、結婚がその自立の代表的な機会であることは間違いありません。
 離れる領域は、建物、経済も含まれますが、これは場合によっては同居したり、経済的な援助を受けたりする場合もありますから、何も結婚したら一切の関わりを断てという形式的な意味ではありません。むしろ精神的な領域のことです。本当に自立しているなら、逆に親とも同居もできるし、場合によっては経済的な援助を受けることも出来ます。しかしどんなに親から離れたところに住み、経済的にも自立し、まったく親とは関わりのない生活をしていても、自立が出来ていないことがあります。
 どういうことでしょうか? 親から離れるという意味は、親との不健全な関係から離れるということも含まれます。そして結ぶとは、親を、一人の人間として敬うことです。それは親の人格を尊重するということです。

がんばれ

 私は、16歳の時に母親と争って家を飛び出し、そのまま先輩の新聞配達店に転がり込み、住み込みで雇ってもらいました。学費も全て自分で稼ぎ、親には一切お金はもらいませんでした。そんな生活をしているのは、同じ高校生の中で自分一人だけでした。高校卒業後はすぐにアパートを借りましたし、その後渡米して自分で生活をしました。自分はその時、同年代の友達と比べて、自分ほど自立をしている者はいないと自負していました。
 確かに表面的には自立をしているように見えます。しかし、私の心の中には、いつも親に対する怒りと反発がありました。その感情が私を自立?へと駆り立てたのです。親から遠く離れて住んでいても、その感情は消えることはありませでした。
 「アダルトチルドレン」という言葉があります。これは子供の時に両親との関わりの中で受けた心の傷(トラウマ)が、大人になった今も自分の人生をコントロールしている状態を表しています。外見は大人だけれども、傷ついた子供が、そのまま生きているということです。私が自負していた自立も、実はまったく逆で、親に対する怒りと反発という感情において、親から自立が出来ていなかったのです。自立とは、単に離れた場所に住んだり、経済的に独立すること以上に、親に対する不健全な思いから離れる、あるいは切り離すということなのです。
自立とは、離れること、結ぶことです。
 もし、親に対する否定的な感情が自分の心にあるのなら、それは鎖のようにして親と自分との心をつないでしまいます。その感情のゆえに親から離れて住んでも自立にはなりません。真の自立とは、親を赦すこと、敬うことから始まります。赦すことは離れることです。敬うことは結ぶことです。
 「あなたの父と母を敬え」(十戒)
愛することは、手放すこと

 しかし、場合によっては親の方が子供を手放さないことが多々あります。これは子供としては困ったことになります。私たちは、親として子供をいかに自立させるか、という務め(ミッション)が与えられています。自立とは、これまで学んできたように、人格が育てられることです。ですから子育てとは、いかに子供と「離れるか」ということです。ヘソの緒が切られた瞬間から、この作業がスタートします。急に離しすぎても困るわけですから、子育ての難しいところは、離す「時」を見定めることです。いずれにしても、この作業は18〜22年間くらいかけて継続的に行われるものです。

空手

 ある文学者が「愛は、限りなく奪う」と言いました。実に鋭い指摘です。「愛しているからこそ」「あなたのためを思って」という言葉で、親は自分の考えを子供に押し付けることがあります。ある心理学者が言うように、「あなたのためを思って」という親のセリフは、まず子供のためになっていない、と言いました。よくよく掘り下げて考えてみると、親自身の自己実現の身代わりであったり、安心感を得るためであったり、親の価値観であったり、結局は「あなたのため」ではなく「私のため」であることが多くあります。前述の文学者の言葉は、このような人間の内側に潜むエゴイズムを指摘した言葉であろうと思います。しかし、これが私たち人間の姿であるのかもしれません。
 それに対して聖書には、「神は愛である」と記されています。そして愛の定義として「キリストが私たちのために命を捨てたこと、これが愛である」と述べています。つまり、真の愛とは、「捨てる」ことです。人間の愛は奪う愛です。しかし神の愛は捨てる愛です。
 私たちが子供の自立を考える上で、自立とは「離す」ことだと言いましたが、これこそ真に子供を愛することなのです。子供を愛すれば愛するほど、子供を手放していくのです。その時に、素晴らしいことが起こります。 子供を手放せば手放すほど、子供は安心して親のもとに近づくことが出来るのです。子供は自分の人格が支配されることを本能的に拒否します。そのような支配のあるところには近づきたくないのは当然です。親が子供を手放すことが出来なければ、子供は親に依存しきって、それこそ自立の出来ない者になるか、逆に親から逃れるようにして離れて行くか、いずれにしても子供を不幸にします。しかし、親が子供を手放している、つまり人格を尊重していると、逆に子供は安心して親のもとに近づいて来ることが出来るのです。「手放せば、得る」これは真理です。
人間の愛は奪う愛です。しかし神の愛は捨てる愛です。
 あるカウンセラーのもとに一人の女性がやってきました。会社に入社した息子が、職場のデスクをきれいに片付けているかどうか心配でならない、ついに意を決して会社が休みの土曜日に職場のデスクを片付けに行ってしまったということです。それを知った夫からカウンセラーのもとに連れてこられた、ということです。これは笑いが出るほど極端なケースに見えますが、実際に似たようなことはかなりあるようです。この場合、心配なのは分かりますが、実際に会社まで行くか行かないかの所で一線を越えてしまいました。

がんばれ

 結婚した息子の新居に関して、その間取りから、家具の置き場所まですべてを知っておきたいと、新居を見に行く母親に出会ったことがあります。この場合も、知っておきたいという気持ちは分かりますが、実際に見に行くか行かないかで一線を越えてしまいました。
 息子がリストラされて帰ってきました。母親は、激しい剣幕で会社に怒鳴り込みました。リストラに対して怒るのは分かりますが、会社に怒鳴り込むのは一線を越えています。
 娘が結婚相手を両親に紹介するために連れてきました。緊張しているボーイフレンドを尻目に父親は、突然庭の草抜きを始めました。結局部屋には戻って来ませんでした。この場合、父親も子離れの時を迎えて、自らの感情と戦っているわけです。もし、ここで娘を部屋に監禁して一切の交際を不可能にしようとすれば、一線を越えてしまいます。幸いに父親は、涙涙で娘を手放すことが出来ました。
 手放すことは、勇気のいることです。頭で分かっていても出来ないことがあります。しかし、手放すことは、ただ捨て去ることではありません。それは預けることです。最も確かで安心なところ、それは神のもとです、神ご自身が子供の創造主、神として、その人生を導いてくださるのです。手放すことは、委ねることでもあるのです。
 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第一ペテロ5:7)
喪失感との戦い

 子供を手放すということは、本来は、何でもないことです。なぜなら人間とはそのように、時期が来たら自立するように造られているからです。ですから家族全体の関係が健全に機能しているなら、自立は当然のこととして、ごく自然になされていきます。それが難しく感じたり、トラブルのもとになったりする場合に起こってくるのが喪失感との戦いです。以前にも言及したように、本来、夫は妻から、妻は夫から受けなければならない心の満足感を子供に求めてしまうことがあります。そのように子供の存在が親自身の心を満足させている場合、子供を手放すことは、まさに身体が引き裂かれるような痛みを感じるのです。親子が一心同体になってしまっているからです。自分の心を占めていたものが取り去られる、この時に感じる喪失感に勝てるか、勝てないかが、一線を越えるか、超えないかの境目です。

子供を手放すことは、自らの心に生じる喪失感との戦いです。
 夫婦の関係が愛と信頼で結ばれていると、子供は安心して自立できるものです。親自身も子供を手放す喪失感を味わいません。なぜなら夫婦でお互いの心を満足させているからです。しかし、夫婦関係がうまくいっていなければ、子供の存在が自らの心を満たしていた場合、子供の自立は大きな喪失感をもたします。子供を手放すことが難しく感じられます。

がんばれ

 私たちが子供を確実に自立へと導くためには、程度の差はあれ、感じられるこの喪失感をどのように乗り越えていくかにかかっています。それは自らの心が、何によって満たされているかということに関わってきます。聖書には、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に、注がれている。」(ローマ5:5)と記されています。神の愛で私たちの心が満たされている時、子供を手放す時の涙は喪失感からではなく、達成感と激励の涙に変わります。
 子供を手放せない親。自立できない子供。これが現代社会の混迷の原因の一つです。親が子供を手放すことは、そのような状況にある親にとっては、大変に難しいことです。しかし、どんな経緯と状況があっても、親自身が神の愛で心を満たされる時、そこに真の「自立」が出来ることを信じています。


文:関 真士

泉の会
  • 日時;木曜日  第一、第三、第五
    午前10時〜
  • 会場;アルファ・ハウス
    (マノア・マーケットプレイスの近く)
    2832 Lowrey ave Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

★どなたでも、ご自由にご参加出来ます。