HCC 子育て09

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恐れを除くには (子育て09)
写真・マノアスプリング
先週は、「畏れる」心を持つことの必要についてお話しました。今回は、同じおそれでも「恐れ」について考えてみたいと思います。

恐れという感情

 この両者は、発音は同じでも意味は全く違います。「畏れ」は必要ですが、「恐れ」は不必要です。親が子供に「畏れ」られることは良いことですが、「恐れ」られることは良くないことです。親が子供を厳しく叱った時に、子供が怖くて親から逃げるか、それとも親のところにハグを求めてやって来るか。子供に「畏れ」を与えているのか、「恐れ」を与えているのか、とても重要な違いです。

 さて今回は、「恐れ」について考えてみたいと思いますが、創世記の3章10節に「彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」 と記されています。これは人間が初めて神に逆らい、その身に罪が入って来た時に人間がとった行動を表しています。まず罪人になった人間が最初にしたことは、「隠れる」ことでした。この隠れるという行為は、人間にとって最も深い意味のある行為です。それまでは、何も隠れる必要がありませんでした。その時の人間はもともと裸でしたから、裸が裸であることに気が付くというのも、よく考えると不思議なことです。つまり、何か隠さなければならいものを持ってしまったのです。それは「罪」です。

アダムとイブ

マスク

 以来、人間は常に本当の自分を隠そうとするようになりました。ありのままの自分を生きるのではなく、偽りの仮面をかぶって生きるようになってしまったのです。その仮面の数は、人によって違います。一つか二つの人もいれば、出会う人の数だけという場合もあります。誰でも、本当の自分でいたいし、自分を生きたいと願っています。そこで自己実現や自己開発セミナーのようなものが流行したりします。しかし、香山リカという心理学者が述べていましたが、「ありのままの姿、本当の自分の姿というが、それも結局は自分の中で造り出した理想の自分であって、それは真の自分の姿ではない。」確かにその通りであると思えます。
 さて聖書は「神は私を知っておられる」 と述べています。本当の自分の姿を知っているのは、神だけです。自分も他人も、一人の人間の全てを知り尽くすことは出来ません。ただ神だけが知っています。そこで、自分を生きる、ありのままを生きる、ということは、私の全てを知っておられる神と共に生きる、ということなのです、神に知られ、神を知り、神と共に生きる時にはじめて私たちは、隠れる必要のない生き方を手にいれることが出来るのです。
 さらに、罪人になった人間が初めてもった感情が「恐れ」でした。この恐れという感情も、人間の一番奥深い所に宿る感情です。つまり、人間に罪が入り、刑罰を恐れ、そして隠れる、という構造です。

少年

 隣の部屋で三番目の子供が静かにしています。普段元気な子供が静かにしていると、逆に不安になります。何をやっているのかな?と部屋に入っていきますと、カーテンの後ろでごそごそ何かやっています。カーテンを開けると口のまわりをチョコレートでベトベトにした子供が複雑な顔をして見上げます。「ご飯前にチョコレートを食べてはいけないでしょう」と言うと、首を横に振って「食べてない」と言い張ります。しばらく「食べてない」と頑張ります。そこで「チョコレート美味しかった?」と聞くと、「うん、美味しかった」と元気よく答えました。
 悪いことをしていると分かっているので、カーテンの後ろに隠れます。なぜ隠れるかといえば、見つかったら叱れるからです。小さな子供にさえ、人類最初の出来事がまさに受け継がれているのです。もちろん大人もそうです。恐れて、隠れる。この構造が人間の生き方を支配していると言っても過言ではありません。

農家

 人間は感情の生き者とよく言われます。非常に理性的な結論のように見えても、実は感情に基づいた結論が先にあったりすることが度々あります。「恐れ」という感情は、私たちの人生を見えないところでコントロールしています。
 この恐れの感情は、私たちの人生にまったく必要ではありません。ですから自分自身の内からも取り去りたいものですが、子供に対しても恐れのない心を持って欲しいと願います。
人に対する恐れ

 私たち人間は色々なものに、恐れの感情をもちます。現代において~~恐怖症というものは、その種類は増すばかりです。その中でも、まず人に対する恐れを考えてみましょう。皆さんは、初めて会う人に対して緊張感を持つ方ですか。顔と名前を知っている程度の相手と会う時、なんとなくしんどい感じがしますか。それよりも家で一人でいる方が楽な感じがしますか。とても仲の良い友達といる時も、何か疲れを覚えることがありますか。

 道を歩いていて、前方から名前と顔を知っている程度の方が歩いて来たとします。もしかしたら相手は自分のことを覚えていないかもしれません。このまま進んでいけばすれ違います。その時、あなたは自分から声をかけるタイプですか? 相手に声を掛けられるのを待つタイプですか? なんとなく顔を下に向けて関りを避けるタイプですか?
 例えば、あなたがパーティーに参加したとします。そんな時、自分から声をかけるとのと、声をかけられるのと、どちらが多いですか。声を掛けれられるのは嬉しいことですね。声をかけてもらうと、楽しく会話が出来るけれども、自分から声をかけて、相手を楽しい思いにしてあげることはありますか? 

仲良し

 例えば、あなたが営業マンになったと仮定して、一件一件飛び込みで訪問販売をしなければならないとしたらどうですか? 楽しみながら出来ますか。それとも大きなストレスを感じますか。
 もし私たちが、人に対する恐れを持っていなければ、もっと自然でリラックスした対人関係を持つことが出来るでしょう。対人関係に積極的でない、むしろ消極的である場合、それは心に恐れを持っている場合がほとんどです。
 その恐れは、もし拒絶されたらどうしよう、という所から生じてきます。別の言い方をすれば、受け入れられるかどうか不安、傷つきたくないというものです。あるいは、自分に自信を持っていない人は、人に会うたびに、相手に自分を合わせ過ぎてしまう傾向があります。相手と一緒の時は、なんとも平和な関係を持っているように見えますが、一人に戻った時、言いようのない疲れを感じます。そして人と会うのがおっくうになって来ます。
 人に対する恐れを持っている人は、両極端な行動をします。それは、全く人との関わりを絶ち、自分の殻に閉じこもって孤立の道を歩むか、あるいは、全ての人に受け入れられ、良い評価を得られるように、常に人に合わせて生きるかのどちらかです。どちらにしも、つらい人生です。
人に対する恐れは、拒絶されることへの不安から来ます。
死に対する恐れ

 もう一つ恐れの対象として考えておかなければならないのは、明日のことです。誰でも一度や二度は眠れない夜を過ごしたことがあるでしょう。大きな仕事を控えている、大事な試験の前日、大きな緊張を要する場面が待っている。そんな時、不安のあまり眠れないことがあります。そのような明日に対する恐れは、突き詰めて行けば、明日の向こうにある「死」というものに行き着きます。もし、私たちが偶然に生まれ、偶然に意味も無く死んでいくような存在であるのなら、人生に起こってくる様々な嵐を乗り越える力は持ちようがありません。

死に付いて考える

 しかし、「死は終わりではない。わたしはよみがえりです、命です」 と言われたイエスを信じる時、私たちに永遠の命が与えられ、死は天国への入り口となります。私たちが将来に対して、確かな希望を持つ時、死に対する恐れはなくなります。死が怖くなくなると、明日も怖くなくなります。
確かな希望を持つ時、死に対する恐れはなくなります。
 それは神が全てのことを最善に導いてくださると知っているからです。人生には予期せぬことが起こります。明日のことは誰にも分かりません。しかし、神が私たちと共に生きてくださり、全てを最善に導いておられることを知る時、恐れは平安に変わります。
 人間は、小さな子供でもいつか死ぬことを本能的に知っています。そして死は恐ろしいものであることも知っています。しかし、幸いなのは、私たちは子供に対して、死をタブー視してごまかすのではなく、はっきりと希望を教えることが出来るのです。もし、子供が死に対して興味を持つなら、また死を恐れるなら、次の聖書の言葉を示してあげることが出来ます。「御子を信じる者は、永遠の命を持つ」 (ヨハネ3:36)
 ただ注意しなければならないのは、今問題になっているゲームのように、死んでも死んでもよみがえる漫画のヒーローのように受け取られると困るわけです。死ぬことは一度だけ、復活も一度だけ、何度も死ぬことや、何度も復活することは出来ません。このような説明が付け加えられること自体に、現代の問題の複雑さを垣間見ます。

遊び

恐れを取り除く

 もし子供が人に対する恐れを持っていたら、豊かな対人関係を築くのが困難になります。人生は出会いで決まると言いますように、人に対する恐れは出会いを妨げ、子供の人生を貧しく狭いものにします。もし、子供の心の内から恐れを取り除くことが出来るなら、その子供は実に豊かな人生を手に入れることが出来るでしょう。また、子供が小さいうちから死に対する恐れを取り除くことによって、明日に向かって生きる力、困難を乗り越えていくたくましさを身に着けることが出来るようになります。

 恐れは私たちの人生にまったく必要のないものです。全て完全に取り去っていいものです。それでは、どうしたら「恐れ」を取り除くことが出来るのでしょうか。次の聖書の言葉を知っていただきたいと思います。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。」 (第一ヨハネ4:18)

恐れには刑罰が伴っていますが、愛には赦しが伴います。
 恐れに打ち勝つ最大の武器は、愛です。愛には恐れがありません。愛と恐れはまったく相容れない、正反対のものです。そして、恐れには刑罰が伴っていますが、愛には赦しが伴っています。罪人になった人間は神から隠れました。罪に対する刑罰を恐れたからです。しかし、今や罪に対する裁きは終わりました。イエス・キリストの十字架は、私たちが受けるべき罪に対する刑罰を身代わりに受けてくださったものです。ですから私たちは、もう刑罰を受けることはありません。これが聖書で言う「救い」です。ですから、もはや私たちは、隠れる必要がありません。清く正しくなってからではなくて、今のままの罪人のままの姿で神の御前に出ることが出来るようになったのです。このキリストの十字架の愛こそ聖書が述べる「全き愛」なのです。この愛は、恐れを締め出します。愛と赦しのあるところに恐れは存在できません。

 さて、子供の心から恐れを取り除く方法は、ただ一つ愛することです。その愛は、赦すこと、ありのままを受け入れることです。子供が何か叱られるようなことをした時、前回述べたように、権威をもって、子供の人格を生かすために躾けをします。その時に親には、たとえあなたがどんなに失敗しても、何度失敗しても、愛し続けるという確固たる思いが必要です。そのような愛に裏打ちされた権威は、子供の心に親に対する畏れをもたらします。畏れを持つ時、恐れはなくなります。畏れの心は、愛と赦しによって育ちます。しかし、恐れの心は、批難と拒絶によって育てられます。
 ある虐待が行われていた家庭がありました。父親が帰宅する気配がすると、家族全員が凍りついたように緊張し、子供たちは押入れの中に隠れる、というようなことがありました。ある家庭は、酒乱のお父さんがいつ暴力を振るいだすか分からず、いつでも逃げられるように、子供たちは服を着たまま寝ていました。これは「恐れ」です。
 あるドイツ人の家庭のことです。食事中に五歳の子供が騒ぎ出しました。お父さんがバチンと指を鳴らすと、子供はビクッとして静かになりました。聞くところによると、お父さんのスパンクに子供たちは震えるぐらいになるそうです。しかし、スパンクをされた後、痛いお尻を抱えながら、お父さんの膝の上に乗ってくるそうです。もちろんお父さんは、そこで思いっきりハグして愛の言葉をかけてあげます。これは「畏れ」です。
 「全き愛」とは、子供をどこまでも、どんな時でも、どんなになっても、決して変わらず、愛し続ける、無条件の愛、無償の愛のことです。
 しかし、そのような愛を人間が持ち得るのでしょうか。聖書は、「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」と述べていますが、「人間は愛である」とは述べていません。愛とは神のご性質であり、神は愛そのものなのです。ですから私たちは、子供を正しく愛するために、まず神から愛をいただく必要があるのです。それは、まず自分自身が、神の子供として、神に無条件で、無償の愛で、永遠に変わらぬ愛で、愛されていることを本気で受け取ることです。そのように神の愛に生きる時に、その愛は子供にも流れていくことを信じています。

愛する


文:関 真士

泉の会
  • 日時;木曜日  第一、第三、第五
    午前10時~
  • 会場;アルファ・ハウス
    (マノア・マーケットプレイスの近く)
    2832 Lowrey ave Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

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