HCC 子育て10

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子供の特性を受け入れる(子育て10)
写真・遊ぶ子供
今日は、子供の特性を理解することについて考えてみたいと思います。特性は「その者だけが有する、他とは異なった特別の性質」と広辞苑では説明されています。個性という言葉とほぼ同義語ですが、より「特別な性質」ということを強調するために、あえて特性という言葉を使用したいと思います。人は誰でも、特性を持っています。それは世界に二つとない、ただ一つの特性です。ですから特性は他人と比較できないものです。比較できないからこそ特性なのです。

親は親の視点で

 黒柳朝さんが『窓際のトットちゃん』を書きベストセラーになりました。娘である黒柳徹子さんは、子供の頃、いわゆるADHD(注意欠陥、多動性障害)であったそうです。もちろん当時は、そのような用語はありませんから、変わった子、困った子、落ち着きのない子、ということで済まされていたのだと思います。

 それにしても、今の時代は、情報がたくさんあり、子供様子をみて素人ながらに診断してしまったり、とにかく何でも病名がつけられる時代です。情報の洪水の中に溺れてしまって、重荷がいっそう増してしまうような時代に思えます。
 専門家による正しい診断と治療は必要であり大切なことですが、実際に子供と人生を共にしている親自身が、その子供をどのように受け留めているかがもっと大切です。前述の黒柳徹子さんにしても、その活躍はご存知の通りですが、彼女はADHDを克服したというよりは、ADHDを特性として伸ばした、と言えるように思います。子供を視る時に、医者には医者の見方、心理学者には心理学者の見方、周りの人には周りの人の見方があります。そして親には親の見方があります。私たちは親ですから、その親の視点を大切にしたいものです。

リンゴ

色々な人たち

 子供の個性を、それぞれの特性として捉えていくことは大切なことです。そのような視点で子供を視ることが出来るのは親だけです。親こそが、子供を他の子供たちとの比較の中でではなく、子供の存在だけを視ることが出来るのです。
 しかし、その親であったも子供の特性を視て、受け入れなれない思いになる場合もあります。子供ある部分、身体的特徴、性格、話し方、感情表現など、どうしても受け入れられない、見たくない、どうしても変えたくなることがあります。
特性を受け入れる

 例えば、内気な性格で、人前で自分を表現することを苦手とする子供がいます。それは見方を変えると、慎重であり、物事をじっくりと観察できるタイプと理解することも出来るわけです。しかし、どうしても、そのような子供の性格を受け入れられない場合があります。また、子供の背が低い場合、なんとか大きくしようと、無理なプレッシャーをかけている場合もあります。また、幼稚園の子供が、自分が太るとお母さんに怒られからとダイエットのようなことをしていることもありました。実際には痩せているのにです。また子供の癖というものがありますが、その癖が気になって仕方のない親もいます。
 これらの場合、子供の特性を受け入れられない原因の多くは、親自身のコンプレックスにあります。親自身の内に、嫌いな部分、受け入れられない部分、つまり自分で自分を裁いている時、それは子供への裁きとなって表に出てくるわけです。親自身が内気な自分を嫌っている時、背の低いのにコンプレックスを持っている場合、自分の体重や外見にコンプレックスを持っている場合、他にもたくさんあるでしょう。

子供たち

 あるいは、ある両親が子供の小さい頃に、夫婦の争いを繰り返していました。離婚に至るケースもあるでしょう。子供が大きくなるにつれ、その影響が子供の心にどのように出てくるかが不安です。なまじ子供の心のあり方について学んでしまうと、子供の心が傷ついていることが分かりますから、ますます不安になります。そんな時に、子供の中に何か不安的な部分を見たりすると、自分を責める、後悔する、申し訳ない思いがすることがあります。そして、その不安から逃れるために、子供の不安定に見えることを、強制的にでもやめさせ、無理やりにでも変えたくなります。それが見えるたびに、心が責められるからです。
 他の人から見ると何でもないことなのですが。自分の子供になると気になってしかたがない、どうしても受け入れることが出来ない、なんとか変えようとする。しかし、人の特性とは、人の人格の一部であり、それを否定することは、人格を否定することになり、子供の心に大きな傷を残すことになります。結局、親自身の自分で自分を裁いている思いは、子供にも自分で自分を裁く思いを植え付けていくことになります。やがて苦い実を刈り取ることになります。

み言葉

 私たちは、まず自分自身が世界で二人といない存在であり、その特性は尊き愛すべきものであることを発見することが必要です。よくセルフイメージという言葉が使われ、その健全度を計るテストもあります。セルフイメージが高ければ高いほど、健全な心を持っているとみなされます。確かに、その通りです。しかし、セルフイメージを高く保とうとするあまり、逆に自分の内にある嫌いな部分を見ないようにしたり、あるいは気付かない振りをしたり、美化したりします。なぜなら、そのような否定的な自分を直視することは、セルフイメージを下げることになるからです。このようにして作り出された高いセルフイメージは、結局は幻想の自分であり、真の平安をもたらすことはありません。
 真の意味での健全なセルフイメージとは、神が自分をどのように見ているのか、ということが根拠となります。自分が自分を判断するのではなく、神の言葉によって自分を判断するのです。聖書によれば、神は私たちのことを知り尽くしておられる、過去、現在、未来、歩んできた全ての道、口から出た全ての言葉、言葉が口にのぼる前の心の思い、立つのも座るのも、寝るのも起きるのも、私の全てを知り極めているのが神です。その上で、神はご自身のことを「神は愛である」と啓示されたのです。神の御前に隠せるものは何一つなく、全てがあらわにされます。それでも神は私たちを愛すると言われるのです。そして神は「わたしの目にあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と語っておられるのです。この神の目が、私たちのセルフイメージを作るのです。まさにありのままの姿というのは、神の御前ですべてを知り尽くされた自分の姿なのです。
 裁かれることではなく、赦されること。裁くことではなく、赦すこと。神と共に歩む人生は、人生に大転換をもたらします。子供は同じ両親から、同じように育てられても、双子の場合でも、やはり皆違った特性を持ちます。その特性が、子供コンプレックスを与えるか、自信を与えるか。自分を嫌いにさせるか、自分を好きにさせるか。自分を否定して生きるようになるか、自分の特性を生かして用いるようになるか。親が子供の特性をどのように視て、捉えていくかにかかっています。
特性を理解して助ける

 子供の特性を考える時に、特に次ぎのようなタイプの特性を持つ子供には、特別な助けが必要となります。それは、重荷を負いやすいタイプ、裁きやすいタイプ、霊に敏感なタイプです。

 ●重荷を負いやすいタイプ
 例えば、誰かの隣に座る、その時になぜか心が急に重たくなったり、悲しみがこみ上げてきたり、自分でもなぜか分からない、不可解な感情が起こることがあります。何故でしょう? それはその隣人の心の状態を感じてしまい、その感情を自らが負ってしまっている、あるいは共感してしまっているのです。

コンピューター

 誰でも感ずることですが、その場の雰囲気というものがあります。平安な雰囲気、緊張した雰囲気、それらは言葉や態度だけではなく、心に感じられるものです。どんなに顔で笑っていても、穏やかそうに見えても、雰囲気というものは文句なしに人の心に伝わるものです。誰からと挨拶を交わす時にも、コンピューターの前に座るのとは違い、相手によって皆違う雰囲気を持っています。なんか怖そうな感じ、暖かそうな感じ、なんか辛そうな感じなどなど。そのように人間は、言葉や態度でコミュニケーションをとると同時に、心と心でもコミュニケーションをとっているのです。
 そして中には、そのような心の状態を敏感に感じられるタイプの人がいます。たまに生まれながらにして、言葉や目に見えるものではなく、心と心でコミュニケーションを取ることに秀でているタイプの人がいます。しかし、この特性は生かして用いると大変素晴らしいことになるのですが、特に子供の場合、自分の心になぜ、このような不可解な感情が芽生えるのかが分からず、ただ人の心を感じ取り、それをそのまま負ってしまい、疲れ果ててしまうことがあるのです。往々にして、とても優しく、感性の豊かな子供が多いのですが、その敏感さのゆえに、自分も一緒に相手と悲しみの底に落ちていってしまうことがあるのです。共感能力が強いのです。
 このような特性を持つ子供がいたら、不可解な感情を、理解可能なものにしてあげるのです。何がそのように感じさせているのか。そして
「すべて疲れている人、重荷を負っている人は、わたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)
と言われたイエスの言葉を紹介してあげるのです。つまり「重荷は、あなたが負うものではなく、イエス様が負ってくださるもの」ということを教えて、重荷の降ろし方を教えるのです。そして例えば、隣人の寂しさを感じたのであれば、「〜さんの悲しみを癒してください」と、その方のために祈ることによって、「自分の責任は果たした、もうこれ以上、重荷を負う必要はない」ということを納得させてあげるのです。
 ●子供の中には、善悪を見分ける力が秀でいるタイプの子供がいます。
 物事の本質を見抜き、何が間違っているか、何が正しいのか。あるいは、その人の裏の裏にあるように事実を見抜いてしまうような、非常に鋭い感覚を持っている子供がいます。物事の本質や、真実なものを見抜けることは大変素晴らしい特性です。しかし、見抜いた後に、どうするかが問題です。多くの場合、相手を見下したり、軽蔑したり、どうせこんなものだと人生に白けてしまうことが多いようです。あるいは、鋭いナイフのように相手を裁いていく、言っていることは正しいけれども、周りから嫌われるようになります。
 この場合「あなたは正し過ぎてはならない」という聖書の言葉にあるように、裁き主は神だけであり、その鋭い感覚は、人を裁くためにではなく、人を助けるためにあることを教えます。そして神さまは、人間の何もかもを知り尽くしている、その上で人間を愛していることを伝え、知ることは、裁くためではなく、愛するためであることを教えます。

ネコ

 ●霊的に敏感なタイプ
 近代合理主義的な価値観の中で、目に見える世界を全てとして生きてきた時代が終わり、目に見えない世界の現実、大切さが言われるようになりました。しかし、霊の世界への関りを持って来なかった大多数の人にとって、この世界をどのように捉えていけばよいのか分かりません。そこで占いやオカルトなどという、大変危険な世界に安易に足を踏み入れてしまうこともあります。
 生まれたばかりの赤ん坊をはじめ、子供は小さければ小さいほど、霊の世界が見えているのではないかと思います。天使も悪霊も見えていると私は思います。そして中には、その時の霊的な敏感さを保ったまま成長する子供がいるようです。霊的な声を聞く、霊的な幻を見る、霊的なものを感じるなどです。多くの場合、そのような子供たちは、その霊が何の霊かを見分けることが出来ません。興味半分で関ったり、怖くて関りを辞めたり、自分は精神的な病ではないかと悩んだり、様々な反応が出てきます。

霊的に敏感な人

 この特性は、真の神と出会うならば、とても素晴らしい特性の一つです。神との交わりを深く豊かに持つことが出来るからです。親の合理主義的な考え方でその感覚を否定しないで、むしろどのようにして正しく霊を見分けていくのかを教えてあげましょう。
 聖書は、「イエス・キリストを告白する霊、イエスを告白しない霊は反キリストの霊」(第一ヨハネ4:23)と記しています。神の霊は、平安と喜びと愛に満ちています。その霊と交われば交わるほど、平安は増してきます。しかし、反キリストの霊は、交われば交わるほど不安と恐れに縛られていきます。最初の入り口は、まるで天国への道かと思われるのですが、その後は恐れに縛れることになります。
 霊的に敏感な子供がいたら、その感覚を認めてあげて、霊を見分ける術を教えてあげましょう。このことは親の手に負えないこともあります。その時には教会の牧師などに相談することが助けとなるでしょう。
 この他にも、子供の特性は様々ですが、いずれにしても特性を否定するのではなく、むしろそれを良いものとして伸ばしていくことを考えていければと思います。そのために親自身が聖書的な価値観を見に付け、自らがその中に生きていくことです。自分自身こそ世界に二つとない特性をもった人間なのですから。そして、神は我が子の人生を最善に導いておられることを信じましょう。

育てる


文:関 真士

泉の会
  • 日時;木曜日  第一、第三、第五
    午前10時〜
  • 会場;アルファ・ハウス
    (マノア・マーケットプレイスの近く)
    2832 Lowrey ave Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

★どなたでも、ご自由にご参加出来ます。