HCC 子育て11

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真理に生きる (子育て11)
写真・マノアスプリング
 今回は、人生のマスターキーについて考えてみたいと思います。これまで子育てについて学んできましたが、結局子育てとは、自分を育てることでもあり、子供を通して自分に気付かされることでもあります。そして親と子の関係とは、夫婦、友達、社会との関係すべてにつながっていて、切り離して考えることの出来ないものです。ですから、根本的なこと、本質的なことは、みな同じです。
 これまで親子関係を中心に学んできましたが、それは親子関係以外の全ての関係にそのまま適応できるものです。真理とは、そのようなものです。
 真理とは、人生のマスターキーです。 これ一本あれば、どんな扉でも開くことができる、というものです。私たちは誰でも、物事を判断するための物差しを持っています。同じ物を見ても、同じ出来事に遭遇しても、人によって考えることは皆違います。海に泳いでいる魚を見て、まず何を思いますか? 芸術家は「きれいな色だな」、哲学者は「この魚は幸せだろうか」、生物学者は「この魚はなんという学術名だろうか」、子供は「触ってみたいな」、私のようにコックの経験があると「うまそうだな」。同じ魚を見ても、人ぞれぞれ様々な捉え方があるものです。人は皆、物事を判断するための物差しを持っています。それは人生経験や学んできたことによって作られています。

魚

親子

 しかし人生には、自分の物差しだけでは判断できない物事もたくさんあります。その一つが子育てです。特に最初の子供は経験がないわけですから、物差しがありません。しいて言えば自分が育てられたように育てる、というのが物差しになるのでしょうか。他には親や友達、育児書からの情報が頼りです。それらは助けになるものですが、やはり絶対ではありません。今から40年くらい前になるでしょうか。スポック博士の育児書がバイブルのようにして支持されたことがあるそうです。当時は、子供の自立を促し、抱き癖をつけないために、赤ん坊が泣いても絶対に抱っこをしてはならない、と教えられたそうです。あるお母さんは、歯を食いしばって我が子を抱くのを我慢したと言っていました。しかし、私たちの年代(40歳)になると、たっぷりと抱っこしてくださいと正反対のことが教えられました。私の場合は、抱き癖などという以前に、親の方が抱き癖になるくらいに抱っこしました。
 大切だと思うことは、子供を育てる中で、確かな物差し(真理)を持つことです。時代によって変化したり、人によって違ってくるような不確かなものではなく、真理と呼べる確かな物差しを持ちたいと願います。それがマスターキーになります。そして真理とは、それこそ本物のバイブル(聖書)の中にあります。それを今回はご紹介したいと思います。
子育ての大前提 ~神の創造~

 まず大前提にあるのは、私たち人間は、神に造られた者であるということです。決して偶然に存在しているのではなく、愛をもって造られ、目的のために生かされているのです。神の創造は「すべてが非常に良かった」のです。 「すべて」の中には、人間も含まれています。(創世記1:1~31参照)

風景

 もし人間が、たまたま偶然に存在しているような進化論的な存在だとすれば、歴史から淘汰されないように、常に人よりも優れていなければなりません。そのような価値観に縛られていると、公園で子供を遊ばせていても、自分の子供と同じ年齢の子供が、もうハイハイしている、もう歩き始めた、もうおむつが取れた、もうお話している、ということが気になってしかたありません。早ければ良いというわけはないのですが、進化論的な価値観の中に生きていると、いつの間にか比較と優劣、それを判定する数字や周りの声に心が縛られるようになります。私の長男がハイハイをしていた頃、ある方に「早く歩き始めない方がいいよ、ハイハイすることによって必要な筋肉をつけているのだから」と言われて、早いことは良いことだ、と当然のように思い込んでいた私の目からうろこを取ってくださいました。同じく長男は、三月生まれでその中でも小さい方です。日本の場合、保育園時代の四月生まれと三月生まれでは体格に大きな差がつきます。長男だけを見ていると、いつも元気で何の問題もないのですが、周りの背の高い子供と比較し始めると、なんだか心配になってきます。創造論的な視点で、我が子の存在を見ている時には平安です。しかし進化論的な視点で比較をし始めると不安がもたらされます。
 進化論の特徴は、「偶然」です。偶然とは無意味と無目的です。人間は目的がなければ生きてはいけません。目的地のない旅は続けられません。人間が偶然という無意味な存在であるなら、子育てにも意味と目的を見出すことは出来ません。まわりと比較することで一喜一憂するようになります。

積み木

 しかし私たちの前提は、神が人間を人間として創造された、というものです。そして大切なのは、神は「非常に良いもの」として人間を造られたということです。時に「望まれない妊娠、出産」があります。妊娠を「失敗」と表現することもあります。しかし、そのような人間の罪深さを超えたところで、神はあなたをこの世に誕生させたのです。ですから、あなたの存在は神の「望まれた」ことであり、神の「大成功」なのです。 神は絶対に失敗されないお方ですから。
 私たちの子供たちも、神に望まれて造られた存在です。ということは、真の意味で子供を育てているのは、神ご自身なのです。 神も子育てをしている、と言えるのです。私たち親は、その神の子育ての働きに、ある期間神から大切な役割を委ねられた者たちと言うことが出来るでしょう。それによって、自分の力だけで何とかしなければとか、子供の人生は大丈夫だろうか、と悩み不安になる必要はなくなります。子育ての最終責任は、子供を人として創造された神が引き受けておられるからです。
二つのキーワード  十字架と復活

さて、前述したように子供が神に造られた者であるということだけなら、子供は何の問題もなく、真っ直ぐに成長するのですが、物事はそうはいかないのが辛いところです。神が非常に良い者として創造された人間は、神に逆らい、神から離れて自分中心に生きるようになりました。これを聖書は「罪」と呼びます。神と人の関係が壊れた結果として、他の全ての関係のバランスが崩れてしまい、夫婦関係、親子関係、人間関係、自然との関係にも痛みがもたらされました。子育てという、本来は最高に麗しく喜びに満ちた務めが、悩みと苦しみの種にもなるのは、神と人の関係が壊れたところに根本的な原因があるのです。ですから真の子育てとは、神に造られた「非常に良かった」という姿を取り戻していく作業なのです。

十字架

 さて、人が本来の姿を取り戻すために、二つの視点から考えると分かりやすいでしょう。それは人間が堕落する前と後では、どのような変化が起こったのか、それは失ったものは何か? 新たに加えられたものは何か? ということです。失ったものには回復が必要です。加えられたものには取り除くことが必要です。
●加えられたもの

 これはまさに「罪」です。ですから、私たちが子育てをする場合も、この人間・子供のうちに潜む罪の性質をしっかりと見据えるのです。そして、罪を子供に負わせるのではなくて、罪を取り除くことが重要です。子供は誰が教えなくても、親に逆らうこと、嘘をつくこと、人を傷つけること、自己中心性を持つようになります。ですから子供の罪の性質には、決して妥協することなく、毅然としてそれを取り除くことが必要です。そのための躾けであり、懲らしめです。聖書には、次のように記されています。

聖書

 「見よ、世の罪を取り除く、神の子羊」 (ヨハネ1:29){この言葉は、キリストの十字架が罪を取り除くことを意味しています。}
 「もし私たちが、自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」 (第一ヨハネ1:9)
 子育ての中で行われる躾と懲らしめは、罪の赦しを与えることが目的であり、子供の心に罪責感や自己嫌悪を与えるためのものではありません。子供の中に取り除くべき罪を見たならば、それを責めるのではなく、共に神の御前に祈ることが出来れば最高です。その時に、子供が罪を告白して「ごめんなさい」が言えたなら、親はその罪がキリストの十字架によって赦されたことを宣言してあげるのです。 罪は赦されることによって取り除かれます。 「赦されること」を知っている人は、「赦すこと」も知ることが出来ます。「赦し」は人の心に自由を与えます。
 子育てのマスターキー、その一つはキリストの十字架によって「罪を取り除く」ということです。

 ●失われたもの
 これは「神のかたち 人格」です。正確には完全に失われたのではなく、傷ついたのです。ですから回復が必要です。これまでも、人格の回復ということを述べてきましたが、これは強調しても強調し過ぎることのない重要なポイントです。聖書には次のように記されています。

傷つく

 「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
 (第二コリント5:17)

 「あなたがたは古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は造り主のかたちに似せてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」
 ((コロサイ3:10))

登山

 さて、皆さんの周りに、回復された人格のモデルになれるような人格者がおられるでしょうか。なかなかいるものではありません。しかし、完全な「神のかたち 人格」を持った方がおられます。それはイエス・キリストです。私たちがキリストを信じる時、「新しく造られる、新しい人を着る」と表現されているのは、私たちもキリストと共に復活し、新しく生まれ変わった者であるということ、「神のかたち 人格」がいよいよ新しくされていくということなのです。
 ですから、子育てのマスターキーのもう一つは、キリストの復活によって、人格が回復していくということです。
 このように、子育ての中には、罪を取り除くこと、人格を回復させること、という二つの面があります。神の創造という大前提に立ち、この十字架と復活というマスターキーをもって物事を判断していくと、複雑そうな問題でも、正しく整理することが出来ます。
 例えば、子供が家の中で禁止されているボール遊びをして、ランプを割ってしまったとします。この場合、取り除くべき罪は、禁止されていることを破ったこと、それは親に逆らうこともでもあります。これに対しては謝罪と償いが必要です。償いはその子供の年齢に応じたものを求めます。しかし、一方で人格を成長させるチャンスでもあります。謝罪の言葉を自分で考えさせる、償いの方法も自分で考えさせる、今後同じことを繰り返さないようにするにはどうしたらよいかを考えさせるのです。
 逆に、頭ごなしに怒鳴りつけ、親の怒りをぶつけただけでは、罪は取り除かれないし、人格も成長しません。ただ嫌な気持ちが残るだけとなります。
 あるいは、子供が学校で友達から意地悪をされました。その時、思わずやり返してしまいました。このような時には、どんな場合でも「悪に悪で報いてはならない」ことを教えます。先であっても後であっても、相手と同じ悪いことをしたのですから、それを見過ごしてはなりません。しかし、また同時に悪から自分を守ることも大切です。相手に言葉で自分の気持ちを伝えること、「NO」とはっきりと答えること。悪い言葉には良い言葉で、悪い態度には良い態度で勝利することを教えます。
 罪を取り除くこと、人格を成長させること、この二つの視点で物事を整理していくと、難解な問題も意外なほど紐解けていくものです。

いじめ

 これからの時代、世の中はますます良くなっていくと思いますか? 子供たちは、ほっといてもより良く育っていくと思いますか? 私は悲観論者ではありませんが、現実はとても厳しいのではないでしょうか。日本では年間の自殺者が三万人を超える時代です。自殺は、人が自分で自分の存在を完全否定することです。世の中はますます便利になり、科学は発達していきます。しかし、人の存在はますます危機にさらされていきます。

光の子

 そんな時代の中で子供たちは育っていきます。しかし、希望はあります。
 「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」
(ヨハネ1:5)
 私たちは、全力で子供たちを「光の子供」として育てていきましょう。決して闇に飲み込まれることがないように。罪から離れ、人格的であることを求めていきましょう。
 子育ては、決して一人でするものではありません。夫婦はもちろん、祖父母が、学校が、地域が、国が、みんながそれぞれの立場で参加するべきものです。しかし、たった一人で子育てをしなければならない状況も多々あるのも現実です。そこで、この一事をどうぞ心に留めておいてください。最後の最後まで、どんなことがあっても、共に子育てをしてくださるのは、神ご自身です。最終的な、全責任者は、神ご自身なのです。ですから、子育ての方法も、神が最善をご存知なのです。私たちを聖書を通して、神の子育て法を知ることが出来るのです。
 ですから肩の荷をおろし、神と共に子育てに前進しましょう。


文:関 真士

泉の会
  • 日時;木曜日  第一、第三、第五
    午前10時~
  • 会場;アルファ・ハウス
    (マノア・マーケットプレイスの近く)
    2832 Lowrey ave Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

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