HCC 子育て12

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怒りと反抗 (子育て12)


今日は、次の聖書の言葉から学んでみたいと思います。

 「父たちよ、あなたがたも子供を怒らせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」

(エペソ6:4)

写真・マノアスプリング
我がままな怒り

 さて、親は子供を怒らせてはならない、と言うのですが、これは子供の怒りをなだめるために、子供の求めに応えることを勧めているのではありません。子供は自分の思った通りにならない時には怒ります。しかし、これは怒るべきでない怒り、つまり不当な怒りです。このような怒りは決して許容してはなりません。むしろ、しっかりと躾けなければなりません。
 デパートのおもちゃ売り場に行くと、必ず出くわす光景があります。子供が手足をばたつかせながら「買って!買って!」コールをしている姿です。まるで子供は自分の全人生をこれにかけているかのように必死に訴えます。もちろん買って良いものは買って上げればよいわけで、何でも「ダメ」というのが躾けではありません。しかし、親が買わないと決めている場面では、子供がいくら抵抗しても、あばれても、大声で叫んでも、「ダメなものはダメ」という姿勢は絶対に変えてはいけません。でないと、子供は大声を出せば、暴れれば、つまり怒れば、親は自分の言うことを聞いてくれると、学習してしまうからです。逆に、ダメなものはダメだと通すことによって、怒っても自分の欲求を満たすことは出来ないのだということを学んでいきます。たまに大人でも、自分の思い通りにならないと、急に怒り出す、子供のような我がままさをキープしている人がいます。それは、怒ることによって人をコントロール出来ると、どこかで思い込んでいるからです。

 親は、周りの目などどこ吹く風で、しばらく子供の様子を見ます。一呼吸おいたら子供の目をしっかりと見据えて、「あなたがどんなに暴れても、ダメなものはダメ。なぜダメかと言うと~~だからダメなのだ」と伝えます。たいていの場合は、親自身が焦らずに、落ち着いて子供の目を見据えて語りかけると、子供は落ち着くものです。しかし、何度か親の方が根負けしたり、周りの目を気にしたり、子供をなだめたりしていると、子供はますます怒りを表現することによって欲求を満たすようになります。子供も欲しい物を手に入れるために、必死の思いで親の隙を探しているのです。
 親自身が子供の感情を受け留めることの出来る心を持つ必要があります。人によっては、子供が怒ったりすると、自分が責められているように感じる場合があります。そして何とか子供の感情をなだめようとして、その欲求に応えてしまうのです。それは親自身が人の怒りによって傷ついた経験がある場合、あるいは自分自身の内にある怒りの感情が反応してしまうからです。怒りの感情を見たくないので、つい安易な方法で子供の怒りをなだめてしまうことがあります。
 「子供を怒らせてはならない」というのは、子供の欲求に応えることによって怒らせないのではなく、子供の怒りを親が受け留め、子供に感情を自制させることを学ばせる、ということなのです。

親子

 人間には喜怒哀楽があります。怒りという感情は、それ自体は決して罪ではありません。義憤というものもあります。しかし怒りが熟成すると憎しみとなり、その心は、相手を傷つけることを欲するようになります。
 「怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」
(エペソ4:26)

ピアノ

 客観的に見て、このような扱いを受けたら怒って当たり前だ、人間として怒らない方がおかしいと思えるような状況があります。上述のような我がままな怒りは、怒って当然ではありません。しかし、場合によっては怒って当然と言えるものがあります。そのような怒りの心を子供たちに与えないようにするのも親の務めです。
 人はどんな時に怒るでしょうか。自分自身の子供の時、親に対して、先生に対して、友達に対して、心に残るような怒りの記憶が何かあるでしょうか。
 「怒り玉」というものがあります。ちょっとでも触れると爆発する、活火山のようなものです。人間だれしも怒りの感情を持ちますが、同時に人間は怒りの感情を処理する能力も持っています。しかし、時に処理し切れずに、そのまま心の中に残ってしまう場合もあります。マグマのように怒りの感情を溜め込み、ある時大爆発をするのです。しかし、活火山は表面的にも分かる場合がほとんどです。本人はいたって普通だと思っているのですが、周りから見ると、いつも怒っている、いつ爆発するか、というような雰囲気があるものです。いわゆる活火山のような「怒り玉を持った、怒れる人」に出会ったことがあるでしょうか。
私の友人に、「怒り玉」を持った人がいました。彼はどちらかと言うと理知的なタイプなのですが、何か気に入らないことがあると、近くにあるものを思いっきり投げつけるような人でした。自分でも「カーッ!」となると、行動を制御できなくなるそうです。身近で見ていても、導火線に火がついて爆発するまで、二、三秒といったところでしょうか。
「短気な者は愚かなことをする。悪をたくらむ者は憎まれる。」
(箴言14:17)

十字架

 「短気は損気」と昔から言うように、怒るのに早い人は何かと損をします。築いてきた信頼関係を一瞬で吹っ飛ばしてしまうことがあります。怒りに満ちている時は、まず冷静な判断は出来ません。ですから「怒りの人」の特徴は後悔です。いつも後悔をしています。
 聖書は、子供を「怒りの人」にしないようにと語るのです。どんな時に、人の心に「怒り玉」が造られるのでしょうか。

いたずら

 まず、怒りの感情をぶつけられると怒りが生じます。「怒りの連鎖」ということで以前に語ったことがありますが、親が、自分の怒りの感情を子供にぶつけると、子供の心にも怒りの感情が芽生えます。その感情は出口を探し求めます。そして自分よりも弱い者や、人の失敗など怒ってもよい状況を見つけようとします。そして怒りのはけ口は、弱者や小動物、いじめにむかいます。
 次に、人格が損なわれる時に怒りが生じます。たとえば叱られている時、自分の弁明を聞いてくれない。有無を言わせないような、叱り方は人格を損ないます。同じ叱るにしても、子供に言い分を充分に述べさせてから諭して叱るのと、頭ごなしに言い分も聞かずに叱りつけるのとでは、子供の心に残るものはまったく違います。私が小学校一年生の時の給食の時間、メニューはスパゲティ、先生はK先生、隣にいたのはH.T君です。なぜかかスパゲティの中にクレヨンが入っていました。今でも真相は分かりません。とにかく隣のH.T君が、「関君が入れた」と言ったのです。私は入れていないのです。しかし、先生は「ぼくじゃない」という私の言葉には耳を貸さず、私はその日罰として給食を食べられなかったのです。今でも、その光景を全部覚えています。これは私の心に怒りをもたらしました。その先生との一年間の記憶は、それしか覚えていません。もちろんクリスチャンになってから、K先生を赦しました。しかし、理不尽な扱いを受ける時に、人の心には怒りが生じることを、その時に体験しました。
 あるいは、深い悲しみを経験すると怒りが生じます。悲しみは熟成すると怒りになり、怒りが熟成すると憎しみになります。 「なぜ自分を愛してくれないの」という小さな心の悲しみは、愛してくれないことへの、愛さない人への怒りとなる場合があります。

ベービー

 他にも人間は怒りを持つ場面は多々あります。たいていの場合は、人間は怒りをうまく処理して心の健康を保っているわけですが、中には処理しきれない怒りを抱えてしまうこともあります。それは「怒り玉」となって心の奥底に置かれます。そして人生のある場面において怒りが爆発し、後悔をすることになります。
反抗期の対応

 もう一つ考えておきたいことは、反抗期です。三、四歳が第一反抗期、思春期が第二反抗期と言われます。この時期は、反抗と言うくらいですから、子供の心から怒りが出てくるものです。しかし、この「反抗」という表現は、あまりにも親の視点に立ち過ぎているように思います。親にとって反抗と映ることでも、子供の成長には欠かすことの出来ない自立の時だからです。大人になってから問題行動を起こす場合、カウンセラーはまず、反抗期があったかどうかを尋ねます。つまり自分のアイデンティティを確立できているか、自立の階段を登っているかということを確認したいわけです。

登山

 ですから反抗期という否定的な言葉ではなく、自立達成期とか人格確立期というような表現はないものかと思います。しかし、ここではとりあえず反抗期という言葉を使います。

 第一反抗期の場合は、わがままな怒りがほとんどです。しかし、それも人格が育って来ている証拠です。ただ自分の意思の表現が赤ん坊と同じで、泣く、わめく、怒る、ことくらいの表現方法しか知らないわけです。ですからこの時期は、自分の意思を相手に伝える方法を教えていく時期なのです。ちょうど言葉を話し始める時期でもあります。言葉で自分の意思を相手に伝えること、感情で親を動かすことは出来ないことを学ぶ時期なのです。

ネコ

 むしろ大切なのは、第二反抗期です。この時期は、軌道修正のチャンスです。今までの子育てで蓄積されてきたマイナス部分が一気に噴出する時期です。しかし、これは子育てにおける大チャンスで、親から離れる前に出来る最後の総仕上げなのです。そして、ある場合には親に対しての怒りが出てくることがあります。あんなに可愛かった子がなぜ? ということも起こり得ます。
 私は、思春期の頃は、まさに「怒りの子」でした。
 学校の先生が、関はいつも喧嘩を売っているようだと言ったことがありますが、実際そのようでした。今振り返って、何をそんなに怒っていたのかと考えてみました。私の場合は、悲しみが熟成した怒りのような気がします。活火山のような明確な怒りではなく、もっと粘り気のあるような怒りです。高校に入ってすぐに謹慎処分になりました。学校に呼び出された母は、先生に口を挟む間も与えずに延々と一時間近く、私のことを罵倒し続けました。先生もあきれていました。その時に持った何とも寂しい、悲しい感情は確かに怒りに発展したように思います。
 自分を受け入れてくれない、理解してくれない、両親の争いでどれだけ辛い思いを持ったのかを理解しようとしない。私の怒りはその辺りから生じていたのではないかと思えます。誰か一人でも、自分の悲しみを理解し、受け留めてくれていたらと思いますが、周りにそのような人はいなかったように思います。私自身も心を閉ざしていたのでしょう。

喧嘩

 やがて大人になり、表面的には親から自立して生活していましたが、ある時、弟のことで母と話す機会がありました。弟はまさに高校生で荒れていました。私には弟の気持ちが分かりますから、母と話をするのですが、母はまったく弟の心の問題に理解を示さないのです。なぜなら母自身が、自分が離婚をしたことで心を責め、自己防衛に徹しているからでした。しかし、それを分からない私は、まさに母に対して怒りました。それは弟のことを通して、自分の心も理解されていないということが分かるからです。その時に、はっきりと私の心の中には、悲しみが理解されていないことへの怒りがあることを自覚しました。
 私自身のことを振り返る時、心の叫びが理解されないことは、悲しみをもたらし、やがて怒りに発展するということが分かります。何を情けない、自己憐憫だと言われれば確かにそうです。しかし、そのように自らの弱さに埋没し、周りに責任を転嫁し、言いたい放題、やりたい放題をやるのが、思春期にある子供の姿です。
 しかし、聖書は「怒りを捨てなさい」と語っています。 どんな理由があっても、「怒り続ける」ことは、悪への道です。怒りからは平安の実が結ばれることはありません。怒りは、相手が傷つくことを期待します。次の二つのことを捨てることです。まず怒りを正当化する一切の権利を放棄することです。次に、怒りの感情を十字架の上に釘付けにすることです。

十字架

 さて、もし私たちの子供が思春期に入り、色々な形で自らの思いを表現し始めた時、私たちがするべきことは、まず理解することです。それは行動を理解するのではなく、心を理解するのです。そのためには耳を傾けることが必要です。親自身の中に、自分を責める思いがあり、自己防衛に徹し始めると、子供の心が見えなくなります。もし必要であれば、親が心から子供に対して「ごめんね」を言えれば、子供は見違えるほどに立ち直ることがあります。

手伝い

 その一言で、子供は自分の心が理解されたと感じるからです。そのためには、親自身が神の赦しを確信し、心に平安を得ることです。
 思春期における第二反抗期は、親自身が自分を振り返るチャンスでもあるし、子供も心の叫びを表現できるチャンスの時なのです。ですから、もし親が真正面から子供と向き合っていくなら、子供を正しく自立させる最大のチャンスとなるのです。
 最後に「かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」 (エペソ6:4)と聖書にありましたが、主の教育と訓戒とは何でしょうか。神はご自身のことを次にように語っています。
 「怒るのにおそく、恵みとまこととに富んでいます。」
(詩篇86:15)
 神ご自身は、「怒るのにおそい」のです。私たちも「怒るのにおそい」者になりたいですね。つい怒るのに早いのですが、導火線をもっと長くして、爆弾に点火する前に消してしまえるくらいになりたいものです。何よりも私たち自身が神の子供として、神ご自身に育てられているのですから。神は、怒るのに早い私たちを赦し、愛し、恵みとまことによって導いてくださっているのです。神から平安を頂く時、導火線はもっともっと長くなっていきます。


文:関 真士

泉の会
  • 日時;木曜日  第一、第三、第五
    午前10時~
  • 会場;アルファ・ハウス
    (マノア・マーケットプレイスの近く)
    2832 Lowrey ave Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

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