HCC 夫婦02

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ニューライフ
過去の自分を振り返る (夫婦02)


さて前回は、私たちが自分を知るという時、それはキリストの内にあって、新しく造られた自分が、古い自分を見ていくとだと述べました。どんな時でも、この真理をしっかりと持っていきましょう。

 それにしても、なぜ、すんなりと新しい自分だけを生きていくことができないのでしょうか。古い自分などを見ていかなければならないのでしょうか。

犬

 それは私たちの心の深くに刷り込まれた、無意識の条件反射があるためです。この条件反射とは、自分にとって普通のこと、当たり前のことですから、それが相手にとってどうなのかが、気がつかない場合がほとんどです。気づいていないのですから、変える必要も感じません。もちろん罪意識もありません。でも相手にとっては普通ではない場合が多々あるわけです。
 皆さんは、熱いものを触った時に、瞬間的に耳たぶを触りますか? よくテレビのドラマなどでは、「熱い!」と言って耳たぶを触るシーンが出てきます。耳たぶは、冷たい所なので、熱い指を冷やす意味があるそうですが、皆さんの中で、そのように耳たぶを触る人はどのくらいいるでしょうか。何かの集まりで参加者に聞いてみると、やはり何人かいるものです。そこで、どうしてそのような瞬間的な行動を取るようになったかを尋ねてみると、ほとんどの場合、親がそうしていた、ということです。
 あるいは今、酸っぱい、真っ赤な梅干を想像してみてください。考えただけで唾が出てくるでしょう。実際には梅干を食べていないのに、身体は食べた時と同じように反応しているのです。これを、梅干を知らない国の人に話しても、まず間違いなく、唾の出てくる人はいないでしょう。これは、梅干は酸っぱいという体験があって初めて出て来る反応です。これも条件反射です。頭の中で、梅干は酸っぱい、だから唾をださなければ、などと考える人はいないわけです。
 私たちが今までの人生において、体験してきたこと、刷り込まれてきたことが、無意識の条件反射として表現されてくるのです。
自分にとっては普通、でも本当に普通なのか?

 人間関係において、特に夫婦関係においては、自分が普通だと思っていることが、相手にとっては大変な驚きであることが多々あります。それは数えたらきりがないくらいです。料理の味付けはもちろん、言葉の使い方から、ある方は歯磨き粉のチューブを下から押し出すか、真ん中を握るかで喧嘩になり離婚にまでなった夫婦もあるそうです。

陶器造り

 ある妻は、食卓というものは、静かに黙って食べるのが普通でした。そのように育って来たからです。しかし夫は、にぎやかに、わいわい話しながら食べるのが普通でした。そのように育ってきたからです。
 ある妻は、車のドアの前で立っています。ドアは男性が開けてくれるのが普通です。でも夫は運転席で妻が乗るのを待っています。それが普通ですから。
 ある妻は、ある夫は、話し始めたらきりがないですね。これらは、今までの人生の中で刷り込まれてきたものですから、本人にとっては、当たり前のこと、普通のこと、でも相手にとっては普通ではないのです。このギャップが人間関係のトラブルの元になることが多々あります。そして、事態が深刻化するのは、本人にとってそれは条件反射ですから、その行動が問題であることに気がつかない、という所に原因があるわけです。

暴力

 「人は自分の行いが。ことごとく純粋だと思う。しかし、主は人の魂の値打ちをはかられる。」 (箴言16:1) 

 ある元ヤクザの親分がクリスチャンになりました。何十年もヤクザのしかも親分ですから、クリスチャンになっても、昔の生き方がなかなが取れなくて苦労したそうです。ある時、道を歩いていると自転車がぶつかって来ました。思わず相手をけり倒して、自転車を投げつけようと抱えた時、ハッと我に返りました。そして抱えている自転車を下ろして相手に謝ったということです。

 この出来事は私たちに二つのことを教えてくれます。それはクリスチャンになっても、それまでの生き方は、特に条件反射は、すぐには消えないということです。また、神と共に歩んでいるなら、条件反射があっても、ハッと気づくことが出来る、ということです。
 大切なことは、古い生き方が出てきた時に、だから癒されていないんだ、変わっていないんだと考えないで、それは身体や心に刷り込まれた条件反射なんだと理解することです。
条件反射の元を探る

 色々な条件反射の中には、日常生活や人間関係にさほど悪い影響を与えないものがほとんどですし、良い影響を与えるものも多々あります。しかし、中には、人生に深刻な悪影響を与えるものもあります。特に、心の傷と痛みから来る条件反射は、悪い影響を人生に与えます。
 日本の冬の光景ですが、ドアを開けようとしている人が、何やらドアのノブに、手を伸ばしたり引っ込めたり、なんだか変です。自分もよくやることですが、静電気が怖いのです。一度ビリッと来ると、次に触るのが怖くて、手を伸ばしたり引っ込めたりしてしまうのです。時に、ここには静電気はないと分かっていても、なんだか怖くて警戒してしまうのです。

恐竜

 人は一度でも痛みを味わうと、痛みから自分を守ろうとして警戒し防衛します。これは心の痛みにおいても同様です。
 夫婦関係の中で考えてみましょう。例えば、夫は多くの場合、妻の感情を理解し受け取ることが苦手です。これは、もともと理論的に物事を考える男性的な特徴です。これ自体は悪いものではありません。しかし、中には、妻が感情を表現し始めると、とたんに心を閉ざし、その場から逃げ出したくなるような衝動に駆られる男性がいます。そして忙しい、疲れているなどと言って妻の感情を避けようとします。これは苦手という範囲を超えています。なぜでしょうか。このような男性は、自分の母親から感情的な扱いを受けているケースがほとんどです。子供の時に、何か叱られるようなことをしたわけですが、母親の感情をぶつけるような、つまり叱られたのではなく、怒った感情によって心が痛んだのです。このように母親から感情をぶつけられて育った男性は、条件反射的に妻の感情表現に心を閉ざし、その場を避けようとします。
 あるいは、普段は温厚な人でも、何か特定の妻の言葉や態度に対して、急に怒り出すケースもあります。
 夫に何か注意したり、咎めたり、責めたりすると(責めたつもりはなくても)、とたんに、怒り出したり、延々と理屈を言い始めたり、逆に妻を攻め始めたり、とにかく通常の会話が出来なくなるケースがあります。これも夫が子供の頃、母親から無条件の愛情を受けていない、いつも点数や善行などで評価されていたからです。妻からバツマークが出されると、妻に受け入れられていないという感覚をもってしまうのです。ですから、夫を一番やる気にさせる、夫が一番聞きたい言葉は、「よく出来たね」という言葉だと聴いたことがありますが、なるほどと思います。多くの男性が、父親や母親から言って欲しかった「よく出来たね」の一言を聞きたいがために、一生懸命に頑張っているわけです。

メガホン

 他にも、妻が話しを聴かない(実際は聴いているのすが)、妻が食事を用意していない、妻が時間を守らない、妻が口答えをする、妻が他の男性と話をした、などなど。些細なことに見えるのですが、夫の何かに触れてしまうようなことがあります。これも夫自身、過去の痛みの経験が防衛や攻撃として、条件反射的に表現されているものです。
 妻にとっても、まったく同じことが言えます。過去の痛みの経験が、夫に対して心を閉ざしたり、批判的になったり、依存的になったり、様々な条件反射として表現されます。
 過去の痛みに基づいた条件反射は、防衛と攻撃に終始します。その結果はもちろん破滅的です。
 問題は、たいていの人が自分の言動に関して、普通だと思っていることが多いということです。そのように何十年も生きてきたのですから。このような過去の痛みから来る条件反射に対しては、その目に見える現象だけにこだわると、かえって状況を悪くしてしまいます。本人にとっては普通なのですから。ですから、本人が自分の言動が決して普通ではない、ということに気がつくことが必要不可欠なのです。そして、その元になっている痛みに目を向けていくことによって、初めて解決の道が見えてくるのです。

気付く

会話

気づくことから始まる

 自分にとって普通だと思っていたことが、必ずしも普通ではない。その条件反射が、相手に対して、特に夫や妻に対して、大きな混乱を与えていたことに気がつくこと。そしてその条件反射の元にある原因に気がつくことが、関係を回復に導く、大きな突破口になります。気づくことは、無意識の中に秘められていた思いが、意識の上に上ってくることです。意識できるのですから、それに対して正しい対処をすることが出来るわけです。
 気づきが与えられるために、まず自分が、そして相手が気づくために、何をしてはいけないのか、どうしたら気づけるのかを考えてみましょう。

 人は、自分と違った人(すべての人が違うのですが)と人格的な関係を持つことによって、気づけるチャンスを得ます。人格的な関係とは、お互いが自分の意思を言葉で伝え合うということです。そして「わたしはこう考える。あなたはどう考えますか」という会話が成り立つ関係です。 それに対して、非人格的関係とは、「わたし」と「あなた」という関係を切り離してしてしまうことです。「わたしはこう考えるから、だからこうする」というだけで、「あなた」の人格は無視する、これは自己中心です。逆に、「あなたが決めて、あなた次第」という「わたし」を無視してしまう、これは他人中心です。相手に思いを向けられない、逆に人のことばかり考えて自分の意志が持てない、非人格的関係とは、自分の人格を抑圧するか、相手の人格を抑圧するか、あるいは両方かということです。  もし、私たちが人格的に生き始めると、「気づく」ことが出来るようになってきます。なぜなら人格とは「神のかたち」だからです。神は光ですから、私たちの心を照らして、何が問題なのかを気づかせてくださるのです。光度という光の強さを計る単位がありますが、人格が尊重されればされるほど、神の光の光度は高くなり、人の心の深いところまで照らす光となります。

パレット

 ですから、自己中心的に考えて、相手に気づかせようとする、つまり相手の人格を認めないのなら、余計に相手を暗闇の中に追いやることになります。また自分自身の人格を抑圧していくなら、それも同じことです。神の光の光度を低めることになるのです。
 人間関係にトラブルが起こってくると、たいていの場合、相手に気づかせようとする場合と、自分が相手に合わせようとする場合と、両極の対応が出てきます。どちらの場合も、人格が無視されているという点においては共通しています。前者の場合は、相手に気づかせようとすればするほど、相手は自己防衛に徹し、関係は悪化するでしょう。後者の場合、一件波風が立たないので、うまく収まっているように見えますが、それは自分が我慢することで成り立っている平穏ですから、その抑圧された思いは、爆発するか、健康を蝕むか、子供などに向けられるか、いずれにしても別の形で刈り取ることになるでしょう。
 そこで大切なのは、まず自分自身の人格が回復していくことです。人格は人格との触れ合いによってでしか成長できません。聖書は次のように言います。
 ということは、私たちはアダムにあって罪があり、傷があるのですが、キリストにあっては、罪が赦され、傷が癒されたのです。
 「キリストが私の内に生きている。」      (ガラテヤ2:20)
 私たちがイエス・キリストを信じる時、キリストは信じる者の内にお住まいくださるのです。ですから前述のヤクザの親分も、ハッと気づくことが出来たのです。それはイエスを信じる者の内に、自分以外の人格、つまりイエス・キリストの人格があるからなのです
 そのように自分の人格が成長していくと、相手に対しても、自分の思いを正しく伝えることが出来るようになります。さらに相手の人格も尊重することが出来るようになります。おそらく自分の思いを伝えても、相手はそれを受け入れることが出来ない場合がほとんどでしょう。しかし、そこで相手を変えようとしない、気づかせようとしない、相手の人格を尊重していくなら、相手を神の光のもとにさらすことになるのです。

聖書

ピース

 その人は、気づくための大きなチャンスを得ることになります。ただ、あくまでもチャンスであって、必ず気づけるか、あるいは本当の自分の姿を受け止めることが出来るかどうかは誰も保証できません。ですから人格的関係を持つために必要なのは、愛と忍耐、信仰なのです。
 たとえ相手がどうであれ、その人が神に愛され、神が共にいてくださり、神がその人生に介入してくださることを信じることが出来るならば、その人を神に委ねることが出来ます。その態度は、大きな光となって相手の心を照らすでしょう。自分の態度が、結果的に相手を神の光のもとに追いやっているか、暗闇に追いやっているか、とても大きな違いです。
光を求めて

 ある20年以上の夫婦関係が破綻した方がいました。夫は、安定した収入、酒もタバコもやらない真面目人間、妻の望むマイホームも建て、子宝にも恵まれ、年に一度は家族旅行に出掛け、実直に生きていました。しかし、妻は家を出て行ってしまいました。なぜ、こんなことが起こったのか夫はまったく理解ができません。妻の方に問題があるとしか思えません。しかし、何度か手紙でやりとりする中で、妻は「初めて、本当のことを言います」と書いて、これまで自分の人格が認められなかったことに対する心の痛みを訴えました。夫はやっと自分が、妻の気持ちを理解していなかった、話を聴いたり、感情を受け留めたりすることの大切さに気がつき、自分には何の問題もないと思っていたことが、実はそうではないということに気がつきました。しかし手遅れでした。関係を修復することが出来ませんでした。

十字架

 自分の人格を抑圧している妻、人格を大切にすることを知らない夫。「わたし」だけを生きている夫、「あなた」だけに生きている妻、一つの悲劇です。
 私たちは、自分を知っているでしょうか。自分の生き方は? 愛し方は? 本当に正しいのでしょうか。
 自分をなくすことによって問題を収めようとしていないでしょうか。逆に相手を変えよう、分からせようとしていないでしょうか。
 本当の「気づき」は、人間を造られた神だけが出来る業です。イエス・キリストを信じる時、私たちは神との正しい関係を持つことができます。その時、神が、そして聖書の言葉が、私たちの光となって、気づくべきことに、気がつかせてくださるのです。夫婦が共に、神を信じ、神に祈ることが出来るなら、行き詰ったように見える関係にも、光が射し込むでしょう。
 「あなたのみ言葉は、私の足のともし火、私の道の光です。」        (詩篇119:105)
 

文:関 真士

聖書

泉の会
  • 日時;木曜日  第一、第三、第五
    午前10時〜
  • 会場;アルファ・ハウス
    (マノア・マーケットプレイスの近く)
    2832 Lowrey ave Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

★どなたでも、ご自由にご参加出来ます。