HCC 夫婦03

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ニューライフ
引きこもりと人間関係について (夫婦03)


さて、今回は現代社会における現象を通して、気づきのきっかけを持てればと思います。

 家族がそうであるように、社会もまた、人と人とのつながりによって成り立つものです。まったく知らない他人同士ですが、それでも人間である以上、社会の影響を受けないわけには行きません。子供は親の鏡と言われるように、社会の子供、若者もまた、大人の鏡です。今、日本の子供たちの間で起こっている社会問題は、決して私たちと無関係ではありません。
 日本にいた時、ある母親が顔に青アザを作って教会に来ました。原因は高校生の娘による家庭内暴力でした。夫は大企業に勤めるエリートで、大地主の息子でもありました。その方は、夫の実家で夫の両親と同居していましたが、夫は母親の状況には全く無関心で気づいていませんでした。もし、私たちの夫が、妻が、顔に誰が見ても分かるようなアザがあり、ましてや家の中で暴力が振るわれているならば、そのことに気がつかないはずがないと思うのですが、今まで何人かそのような夫に出会ったことがあります。

音楽

「何度か相談にのるうちに、この方がとても驚くべき発言をしました。「私が今娘から受けている暴力は、実は、私が昔母親にしたいと思っていたことなのです。」この気づきがきっかけとなり、この方は問題の本質に目が開かれていきました。
 ここで一つ分かることは、親が抑圧している思いは、自分の子供たちの内面に伝わり、しかも濃縮され、目に見える形で現れることがある、ということです。社会というレベルでも同じことが言えます。大人が抑圧している思いは、次の世代に目に見える形で現れます。ですから、私たちは、子供を通して自分を知ることが出来るし、また社会の現象を通しても自分を知ることが出来るのです。
今、日本で

 日本の社会を根底から揺り動かす問題、それは子供たちの心が病んでいる、ということです。引きこもりは80万人、リストカットはなんと女子高生の14%だそうです。(引きこもりとは6カ月間以上、家から出られない状態をさす)大人はこれらの問題を隠す傾向がありますから、実数は何倍にもなるでしょう。さらに、家から出て非行に走る若者たちは薬物に手を出し、援助交際、暴力行為へとエスカレートしていく。どちらも根は同じ。前者は、心優しく人を傷つけることが出来ないので自分を傷つける、いわゆる自傷行為というもの。後者は、逆に大人や社会に反発して相手を傷つける、他傷行為というもの。どちらも、自分を罰し、他者を罰している。根にあるのは、愛されないことへの悲しみ、悲しみが熟成して怒りとなり、さらに憎しみへと発展する。心が一杯になった子供たちは、自分を罰することによって、あるいは他者を罰することによって心のバランスを取ろうとしている。

自分の姿?

 なぜいじめをするのでしょうか。それは快感だからです。だからいじめが止められないのです。なぜリストカットするのでしょうか、心が楽になるからです。だから止められないのです。
 この問題に関して、インターネットをはじめ、たくさんのレポートと見解がメディアに出ていますので私たちは多くの情報を手にすることが出来ますが、やはり聖書から問題の根本に光を当てて見たいと思います。
 人間が、創造主である神から離れ、神に反逆するような生き方をしていると、必ず生じる現象があります。それは、人間が自分自身を傷つけ始めるのです。
聖書の第一列王記18章に記されていることですが、昔イスラエルの国民が神に逆らい、バアルという偶像を拝み始めました。その時、真の神の預言エリヤがただ一人、バアルの預言者400人に戦いを挑みました。

泣き虫

自分を見出す場

 お互いに犠牲を用意し、そこに天から火を下した方が真の神だという勝負です。バアルの預言者たちは、叫び続けましたが、天からは何も降ってきません。そのうちに、剣や槍で自らの身体を血を流すまで傷つけ始めました。それでも何も起こりませんでした。
 この出来事は、まさに今の日本の姿をあらわしています。自らを傷つけ、血を流し、そこまでして自分の存在を確認し、助けを求め、「愛してくれ」と叫んでいるのです。でも、いくら手首を切っても血を流しても、なんの応えもありません。

 しかし、聖書は何と言っているでしょうか。
「あなたがたはキリストの打ち傷のゆえに癒されたのです。」 (第一ペテロ2章24節)
「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめるのです。」 (第一ヨハネ1章7節)

真の神は、人が傷つくことを求めません。逆に自らが傷つき、血を流してくださったのです。神に従うことを抜きにした自己中心な国民は、まるでバアルの預言者のように、自らを罰し傷つけ血を流すことによって自分の存在を確認し、愛を求めて叫びます。しかし、真の神は、人を救うために、神ご自身が傷つき血を流してくださったのです。この十字架の福音と正反対のことが起こるのが、神から離れた国と人の姿です。

十字架

潜在的な引きこもり

さて、前述したように、日本で起こっている出来事は、私たちにとっての鏡でもあります。私たちは、そこから何を学ぶことが出来るでしょうか。ある人は全く理解できないと感じることもあるでしょう。しかし、よく考えてみると、例えば「やけ食い」これは今風に言えば急性の過食です。悩みが深くて食欲がない、これは急性の拒食です。あまりにも嫌なことがあって「ふて寝」これが六カ月続くと引きこもりです。疲れ果てて誰とも口を利きたくない、これも六カ月続くと引きこもりです。「やけ酒」これが薬であれば薬物中毒です。
嫌なことがあって思いっきり石を蹴り飛ばした、このエネルギーが人に向うと自傷、他傷行為となります。大人は、自分の意志や理性である程度自分の行動を治めることができますが、今の子供たちは自分を治める心、すなわち人格が本当に弱くなっているのです。昔のように根性だけではどうにもなりません。
昔なら、「やけ食い」も「食欲不振」もせいぜい数日です。「ふて寝」などしていたら、親に布団をはぎ取られて嫌々学校に行ったものです。しかし今は、それが六カ月以上続くほど、子供たちにとって外の世界は危機に満ちていて、それを治めて乗り越える力も弱くなっているのです。それには親の子育ての問題、学校の教育の問題、地域社会の問題、パソコンやTVから流れる情報の問題、ゲームの問題など、多くの問題が複合的な原因となって、今の子供たちを形造っているのです。

さて、それでは、これらの諸問題の中の一つ「引きこもり」を通して、学んでみたいと思います。この問題が私たちと、どのような関係があるのでしょうか。
ある先生から次のような言葉を聞きました。
「潜在的な引きこもり」

遊び

 これはどのような意味でしょうか。つまり、私たちの心の中にも幾つかの部屋がありますが、その一つの部屋に、本当の自分を引きこもらせている、というのです。
 本音と建前とはよく言いますが、本当の自分の心の思いを、様々な理由から抑圧してしまう。それは、まるで本当の自分が部屋の中に閉じこもったまま出て来ない、「潜在的な引きこもり」というわけです。
 私たちが、本当の自分を抑圧し、仮面をかぶり、良い夫、良い妻、良い子供、良い社員を演じているなら、それは潜在的な引きこもりです。あるいは、過去の傷ついた経験から、もう二度と傷つきたくないと、本当の自分を隠して、傷つかないように人と人との間を掻き分けながら生きていく、これも潜在的な引きこもりです。愛されるために、ほめられるために、認められるために、本当の自分を抑圧し、相手の評価に合わせて生きていく、これも潜在的な引きこもりです。
 そして、引きこもっている本当の自分は、いつも部屋の中で叫んでいるのです、「部屋から出たい、本当の自分を生きたい」。でも出られないのです。拒絶されたらどうしよう。傷ついたらどうしよう。笑われたらどうしよう。

仮面

 さて、引きこもりは日本独特の現象だそうです。欧米にはないということです。しかし、よくよく見ると、聖書の中にはしっかりと引きこもりが出てきます。なんとそれは、創世記3章8節以降に登場します。罪を犯したアダムが神の刑罰を恐れて木の陰に身を隠したのです。本当の自分を見られるのを恐れて隠れたのです。これはまさに引きこもりです。引きこもりとは、神に逆らい罪を犯したアダムがとった最初の行動でもあったのです。ある意味で、人間はみな神に対して引きこもっていると言えるでしょう。

春

 新約聖書には、次のような物語が登場します。ラザロという男性が死にました。当時の墓である横穴式の洞穴にミイラにされて葬られました。墓の入り口には大きな石がふたとして置いてあります。そこへイエスがやって来られました。人々は墓を前にして、愛する者の死を嘆き悲しみ、たくさんの涙が流されていました。しかし、イエスはおっしゃいました。「墓の石を取り除けなさい」、そしてイエスは大声で叫ばれました。「ラザロよ墓から出て来なさい!」そうするとミイラの包帯を巻かれたままのラザロが蘇って墓から出てきたのです。
 墓とは罪と死の象徴です。その中には傷、悲しみ、怒り、憎しみ、絶望、恐れ、全ての罪に属するものが満ちています。しかし、その真っ暗な墓の中に光が射し込みました。石が取り除けられたのです。死んでいたラザロにイエスの声が響きました。「出てきなさい!」。
最終的な選択

 今でもイエスは叫ばれています。「墓から出て来なさい!」と。そこには三つの意味があります。一つは、私たちを招いておられる方がいるということです。様々な弱さを持った自分と、共に生きてくださる方がいる。このお方は私の名前を呼んで招いてくださっている。二つ目は、共に生きようと呼びかけるお方は、私たちを赦していてくださるということです。決して罰しないから、大丈夫!出て来なさい、というのです。イエスご自身が私たちの身代わりとなって、全ての罪と傷をその身に負って、神の刑罰を受けてくださったのです。このイエスの十字架のゆえに、私たちは出て行くことが出来るのです。三つ目は、神の愛があるということです。そこから出て来た自分がどんな姿であっても、神の愛は変わらない、永遠の愛で私たちを愛してくださる。

 だから私たちは、木の陰から、墓の中から出ていくのです。本当の自分がどんな自分であっても、その自分を愛して赦してくださる神がおられるからです。今もイエスの「出来なさい!」の叫び声が私たちの心の奥底にまで響いているのです。

庭の手入れ

潜在的な引きこもりと人間関係

 もし私たちが潜在的な引きこもりをしていると、人間関係を健全に保つことは難しくなります。なぜなら発している言葉や態度と、実際の心の思いとが違うからです。本音と建前ということですが、そう考えると日本人の民族性の中に、まさに潜在的な引きこもりがあるのだと思わされます。本当はやりたくないのに、言葉では「やります」。本当は欲しいのに、言葉では「欲しくない」。時に、一人を相手にして会話をしているのに、なんだか二人、三人と会話をしているように感じることもあります。そのようなコミュニケーションが成立するはずがありません。皆が、言葉と心が一致するなら、どれだけコミュニケーションが楽になるでしょうか。
 しばしばアメリカに来た日本人が、会話が楽だと感じることがあります。それは言葉と心が一つなので、言葉の通りに受け取ってもよいという環境があるからです。イエスならイエス、ノーならノーです。

 「二心のある人は、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」 (ヤコブ1章8節)
 二つの心があるということは、人格的な生き方と正反対です。言葉で自分の思いを表現できることは人格的な生き方の一つの素晴らしい側面ですが、その言葉が心の思いと一致していなければ、それは、自分が失われていることと同じです。自分の心の思いを言葉で表現できなければ、自分の生きるべき世界は開かれていきません。
 さて夫婦関係の場合も同じことが言えますが、夫婦は、本能的に一つになろうとします。それは聖書に書かれている通りに「夫婦は一心同体」だからです。しかし、一心同体になるためには、お互いが一つの心を持つ必要があります。言い方を変えると、お互いが本音を出し合う、光の中を共に生きるということです。

喧嘩

 そうは言っても、そう簡単に出来るものではありません。ただ、夫婦がぶつかり合う中で、引きこもった人格が表に出てくることがあります。ほとんどの場合、それは喜びのあまり出てくるのではなくて、夫婦喧嘩のただ中で出てきます。相手に自分が理解されない苦しみの中で、本当の自分はこうなんだと、引きこもっていた部屋から思わず出てくるのです。その姿は、引きこもっていただけあって、悲しみに満ちた姿、怒り、憎しみ、絶望、恐れ、傷ついた姿でしょう。普段の格好の良い、愛らしい姿とは全く違った姿です。思わず相手をののしりたくなるような、裁きたくなるような姿です。しかし、それは本当の姿が光の中に出てきたのです。
 ここが大きな分かれ目です。相手は、引きこもっていた部屋から、せっかく出てきたのです。もし、そこで相手を裁いてしまったら、やっぱりだめだ、やっぱり裁かれた、と部屋に帰って鍵をかけてしまいます。それは墓から出てきたラザロを、墓に追い返してしまうことになります。イエスが墓の外でラザロを迎えたように、私たちも、光の中に出てきた相手を、しっかりと受け留めたいのです。愛と赦しによって迎えられた魂は、安息を得ます。そして、もはや引きこもりの部屋に帰る必要はなくなります。聖書には次のように記されています。
 「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。」    (エペソ5章13、14節)
 光のうちに留まるなら、すべての暗闇は光となります。ですから、夫や妻の心の中にある本当の叫びが表に出てきたとき、それは表面的には夫婦の最大の危機のように感じられる場面ですが、実は、夫婦が最も一つの心に近づいている時なのです。人は裁かれて変わるのではなく、愛されて変わるのです。そのようなことが何度か繰り返される中で、お互いが本当の自分を出しても大丈夫だという安心感、信頼関係が結ばれてきます。そこまで来ると、もはや喧嘩にまで発展する前に、自分の思いをそのまま表現できる。つまり一つの心で相手に接することが出来るようになってきます。
 さて夫婦はお互いが、相手が本当は何が言いたいのか? 何を感じているのか? 言葉の背後にある思いを悟ることが出来るよう、もう一つ向こうを見る目を持つように心がけましょう。

友

 また相手に対して、自分の言葉と心の思いが一つになって表現できるように、心の思いとは逆の言葉で相手に分かってもらおうとしないように心がけましょう。

車

 お互いが、相手を受け入れる者として、受け入れられる者として、成長を求めていきましょう。そして何よりも、イエス・キリストの愛と赦し、十字架の福音こそが、夫婦を真の夫婦とする結びの帯であることをいつも確認していきましょう。
文:関 真士

泉の会
  • 日時;木曜日  第一、第三、第五
    午前10時~
  • 会場;アルファ・ハウス
    (マノア・マーケットプレイスの近く)
    2832 Lowrey ave Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

★どなたでも、ご自由にご参加出来ます。