HCC 夫婦07

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ニューライフ
「父性」と「母性」1 (夫婦07)


今回のテーマは、「父性」と「母性」です。

 この二つの性質も神のかたち(人格)の現れです。創世記の一章二七節には、「神は、このように人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」と書かれています。神のかたちとは人格のことですが、その人格は男と女、しかも、この男女の関係は夫婦というところがポイントです。ですから人格の成熟ということを考える時に、男と女の中にある「父性と母性」については避けることの出来ないテーマです。熟した人格とは、一つには、父性と母性がバランスよく機能していることと言えます。
母性について

 母性の特徴を一言で表現すると「受容」です。「包含」とも言えます。その対象が善でも悪でも、全てを受け入れ包み込んでしまう。よく「母なる大地」「母なる〜川」などと「母」という言葉がつけられる時、そこに込められているイメージは、「産み出す豊かさ」「無条件の受容」と言えるのではないかと思います。大地の上には良い人も悪い人も共に住みます。悪い人は住めませんとは大地は言いません。同じ種を蒔くなら、良い人にも悪い人にも、わけ隔てなく産物を生じさせます。人間が生きていくために必要なものを大地は産み出し、それを分け隔てなく与えてくれます。また「母なる川」と聞いてすぐに頭に思い浮かぶのがインドのガンジス川です。この川では沐浴がされ、埋葬、洗濯、入浴・・・人の生活のすべてがあり、人の一生の全てをそのまま受容し流れていきます。

家族

 母性というのは、このように全てを無条件で受容し、包み込み、惜しみなく与えるものです。母性は感情的であり、感覚的です。この母性が子供に向けられる時、子供は絶対的な愛の中で、自らの存在を確立することが出来ます。
 あなたは母性的でしょうか?

父性について

 父性の特徴を一言で表現すると「切断」です。その対象が善であるか悪であるかを明確にします。物事を判断しようとします。そして決断します。善も悪もまとめて一つにするということが出来ません。父性は理性的であり、論理的です。母性はつなごうとしますが、父性は切り離そうとします。ちなみににこの父性が子供に向けられる時、子供は自立への道を歩み始めます。そして善悪の基準を得て、判断する力、決断し実行する力を得ていきます。
 あなたは父性的でしょうか?

父性と母性の機能

 よくキリスト教は父性的宗教だと言われます。そのキリスト教の影響を強く受けている欧米社会もまた父性社会であると。それに対して日本は母性社会だと言われます。しかし、これには同意できません。聖書を読むならすぐに分かることですが、まさに聖書に啓示されている神は、母性的であり、父性的です。そもそも、この両者は神のかたちなのですから、神の中に両者の性質が見られるのは当然のことです。

灯台

ピアノ

 「見てご覧なさい、神の慈しみと厳しさを」
(ローマ11章22節)

 キリスト教は明らかに、父性と母性の両方を持っています。父性的であると言うならば、「父なる神」と呼ぶくらいですから、善悪の基準を明確にし、人格を自立へと導き、理性的であることを求めます。母性的であると言うならば、放蕩息子の譬話にもあるように、罪を犯した息子を無条件で、ありのままで受け入れ、抱きしめて迎え入れるのです。キリストの十字架の救いは、出産の苦しみに譬えられています。無条件の愛とは、まさに神の愛のことです。
 私たちは、本来一つの事柄を二つに分裂させてしまう傾向があります。父性も母性も本来は一つです。この両者がバランスよく機能することが大切です。しかし真理は、いつの世においても二つに分けられ、時計の振り子のように極端から極端へと揺れ動きます。
 欧米社会は確かに父性的でした。だからこそ「ありのままで受け入れる」という母性的なアプローチがカウンセリングの現場などで行われたのです。日本は逆に、母性社会ですから、父性的なアプローチ、つまり「自立」ということが強調されます。

 以前にも述べましたが、本来一つであるべき父性と母性が、切り離されてしまうとどうなるのでしょうか。父性も母性も、糸の切れた凧のように、さまよい始め暴走し始めます。
 父性を失った母性、つまり「切断」されることのない母性は、包み込みが、しがみつきへ、そして飲み込み、やがて死に至らしめます。本来素晴らしい性質であるはずの母性が、依存と支配をもたらすものへと変質してしまうのです。
 ある母親は、私にとって一番大切なのは、猫と息子だと言いました。猫と息子のことになると理性を失ってしまいます。20歳を過ぎた息子の仕事から、食事から、友人関係から、何から何まで決めようとします。息子はそんな母親から自立したいと思いながらも、自立する力が養われていませんから出来ません。結局は母親のペットの様になってしまっています。父親は妻に母親探しをし、父性を放棄し子供となっています。当然「切り離す」という父性の役割は出来ません。妻に母親を求める夫、父性による抑えを失った母性の暴走、その犠牲者としての息子。よくある一つのパターンです。
 母性を失った父性、つまり「受容」することのない父性は、切断が、切り捨て、裁き、拒絶となり、これもやがて死をもたらします。

亀

不機嫌

 ある摂食障害の子がいました。両親共、ある宗教の熱心な信者でした。戒律を重んじる教えの中で、両親は子供に対して戒律に従うことを教えました。教えを守れない時には厳しく叱られました。到底守ることなど出来ない戒律ですから、愛され赦されることがありません。常に戒律が自分を見張り裁きます。ある時、体調を崩して痩せてしまいました。その時母親の「あら、最近あなた痩せたわね」という一言が心を揺らしました。そうか痩せれば、お母さんは自分のことを心にかけてくれるんだ。母親の一言に小さなぬくもりを感じたその子は、それ以来痩せるために食事をしなくなりました。そこから節食障害が始まりました。
 私たちも、それぞれの家のルールがあります。ルールは大切ですが、母性を失い暴走を始めた父性は、子供のあるがままの存在を受容できずに、常に裁いて否定します。存在を肯定されたい子供たちは、親の願いにかなう、なんでもハイという良い子を演じ始めます。
 子育てにおいては、このように父性と母性のバランスが崩れてしまうとトラブルが起こってきます。
 私たちの社会には、この両極端な現象が見られます。依存と支配によって人格が傷ついてしまった人、拒絶され、切り捨てられて人格が傷ついてしまった人。「あなたのために」という言葉で支配されてきた人、「おまえなんかダメだ」と言われて拒絶されてきた人。

押しつぶされる

 ある学者が、「昔の日本は父親の権威が強く、一見、父性社会のようでありました。そこでバランスをとるために父性を弱め母性を強めるような風潮が起こりました。しかし、父性社会というのは外見だけで、実質は妻が家庭を牛耳っていた母性社会であった。」と言っていました。しかし、外見だけの判断で父性を弱めてしまったので、もともと強かった母性の抑えがはずれてしまい、堤防の決壊したダムのように、母性が暴走しているのが現代の問題であるように思います。

母と子

 しかし、多くの夫は、妻に王様の下僕であることを求めています。自分の何かを満たそうとします。それが満たされないと不機嫌になり、怒り、時には暴力にも発展します。一体何を求めているのでしょうか。多くの場合、母なる存在を求めているということです。いわゆる「母親探し」ですが、ここで言う母親という意味は、自分をほめてくれる、価値を認めてくれる、無条件で愛してくれる、いつも一緒にいてくれる、そのように自分自身がありのままで受け留められる存在ということです。夫がどのような母親に育てられたかは人それぞれですが、どのような原因があったとしても、妻を母親代わりにしては健全な夫婦関係は成り立ちません。
父性と母性のバランス

 さて、皆さんの中で、私は女性だけど父性的だな、私は男性だけど母性的だなと感じる方がいると思います。実は、この父性と母性とは、何も男女に分かれて存在するものではありません。一人の人間の中に、男性ホルモンと女性ホルモンの両方があるように、一人の人間の中に、父性と母性の両方の性質が宿っているのです。なぜなら人間は神のかたちに造られているからです。もちろん男性は父性が、女性は母性が強いと比較的言えますが、人格の成熟とは、自分の中に、父性と母性がバランスよく機能することです。また成熟した夫婦とは、父性と母性を持つお互いがバランスよく機能することです。

 例えば父である私が、子供を厳しく叱ります。何が悪いことで良いことなのかを言葉で教えます。そして叱られてベソをかいている子供を「愛しているよ」と言って強く抱きしめます。これは父性と母性の調和があります。もし、厳しく叱りつけて説教するだけで、「それでも君を愛する愛に変わりはない」ということを伝えられなければどうでしょうか。逆に、叱ることも教えることも出来ないで、ただ何でもよしよしと言っていればどうでしょうか。父性と母性が一つのものとして機能していくときに、バランスのよい関わり方をすることが出来ます。

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女性の空手家

 聖書にハンナという名の女性の祈りが記されています。ハンナは子供が与えられず、差別と屈辱の日々を送っていました。そんな中でハンナが心を注ぎ出した祈りが次のものです。

 「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」

(第一サムエル記1章11節)
 この祈りに神が応えてくださってハンナにサムエルという男の子が与えられました。そして子供が乳離れした時、約束通りに子供を神に捧げました。ハンナの子供を産みたいという思いは、まさに母性の本能です。しかし、そこまでして与えられた子供を神に捧げるということは、父性的な心です。産み出すということと、切断することの両方があります。
 子育てに限らず、例えば会社で誰かの失敗を発見したとします。母性的な人は「まあまあいいじゃないか。誰でも失敗するよ」と言います。父性的な人は「なぜ失敗したのか、失敗をどう償うのか」という所に意識がいきます。両方をバランスよく持っている、つまり成熟した人は、失敗した人を受容しながらも、次に失敗しないためにどうしたらよいかを考えるのを助けます。物事を受け入れようとする心と、物事を正そうとする心の両方を持っています。
 母性的な人は、父性的な人を見て厳しすぎると感じます。逆の場合は、甘いと感じます。
 夫婦の中でも、この二つの性質がかみ合わないと「厳しすぎる、いや甘すぎる」といったようなやりとりが出てきます。
 仮に、自分自身の心の中を見るならば、父性と母性は、何対何の割合であると思われますか。様々な状況の中で一人で子育てをしなければならない人の場合、自らの中に父性と母性の両方が宿っているということは朗報でしょう。夫婦の場合には、例えば夫が父性が七割、母性が三割とすれば、理想的には妻は父性が三割、母性が七割であればいいですね。お互いが足りない部分を補い合えるということは、素晴らしい恵みです。もちろんこんなに単純に計算できるものではありませんが。お互いの性質が、うまくかみ合うと実に麗しい夫婦関係になるわけです。

本音

父性と母性の回復
 さて、少し整理してみましょう。父性と母性は、一見対立するように見えます。しかし、この性質は本来は一つであったということです。ですから一人の人間の中に、父性と母性の両方が存在します。人格の成熟とは、この二つの性質がバランスよく機能することです。男性だから父性だけでいいというわけにはいきません。女性の場合も同じです。
 成熟した者同士が夫婦となれば、お互いの足りない部分を補い合うことが出来ます。これは夫婦の恵みです。
 しかし、個人の場合にしても、夫婦の場合にしても、うまく補い合うよりは、見事にぶつかってしまうことが多いようです。なぜでしょうか。

 まず個人の場合、もし自分は男性なのに母性が強いなと感じる場合、多くの場合父親との関係が希薄、つまり父性のモデルがない。母親は強圧的、律法的、支配的、つまり受容がない、ということがあります。

 逆に女性でありながら父性が強いという場合、多くの場合、父親は強圧的、律法的、支配的、つまり受容がない。母親の存在が小さい、関係が薄い、つまり母性のモデルがない、ということがあります。
 こう見ると、自分自身の中に、父性と母性のバランスの乱れがあるとするなら、それはやはり両親との関わりが大きく影響しています。父性は父親との関わり、母性は母親との関わりです。そのような個人が夫婦となった場合、補う合うのではなくて、お互いの一方を伸ばし過ぎるか、つぶし合うかのどちらかです。
 ある男性がいました。その方は小さい時に父親を亡くしました。小学生の時、担任の先生が何気なく言った「父親のいない男は、何か一つ物足りない」という一言が心に刺さりました。その通りだと思いました。

ハワイスタイル

夕焼け

 その物足りなさがコンプレックスとなり、逆に男らしい自分を一生懸命に演じるようになりました。しかし、どんなに男らしい(この男らしさは、その国の文化に定義された男らしさ)自分を演じても、本当の自分は変わりません。この方はある時、クリスチャンになりました。そして神に祈っている時に不思議な経験をしました。突然自分の体が宙に浮いたのです。驚いているとなんと神さまが自分を肩車しているのです。これは自分が小さい頃から夢見ていたことでした。お父さんに肩車をして欲しいという、どんなに願ってもかなわなかった夢、それが実現したのです。この方は、この体験以来、男らしさを演じることをやめました。いえ、演じる必要がなくなったのです。そして父なる神との関わりの中で、父性を得ていったのです。
 もし母性が足りない、と感じておられたら、聖書に次のような言葉があります。

 「女が子を産むときには、そのときが来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に産まれた喜びのゆえに、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。」

(ヨハネ16章21節)

 これはキリストの十字架のことを女性の出産の苦しみに譬えているのです。まさに十字架に表された無条件の愛、これは母性的です。自分自身が、神の愛を充分に体験することです。
 私たちは、足りないもの同士です。しかし、その足りなさを放置するのでも、相手に要求するのでもなく、神ご自身に補っていただくことを求めていきましょう。父性も母性も、神のかたちであり、人は神のかたちにつくられているからです。  神と共に生きる時、私たちの人格は回復し、成長していきます。その成長の中には、父性と母性の回復も含まれます。一見相反するように見える二つの性質が、一つに機能して初めて成熟と言うことが出来ます。
文:関 真士

泉の会
  • 日時;木曜日  第一、第三、第五
    午前10時〜
  • 会場;アルファ・ハウス
    (マノア・マーケットプレイスの近く)
    2832 Lowrey ave Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

★どなたでも、ご自由にご参加出来ます。