HCC 夫婦10

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ニューライフ
人格形成に必要なのは言葉(夫婦10)


私たちが、しばしば「この人は人格者だ」と言う時、それはどのような人だろうか。あるいは「この人は成熟した人だ」と感じる時、その人はどのような人だろうか。

 私たちは、自分自身の人格を尊重すること、相手の人格を尊重すること、特に子育てにおいては、子供の人格が成長することを最も大切な子育ての目標として考えてきました。なぜなら、人格とは、「神のかたち」であり、人間が人間として造られたことの証だからです。
 それで、これまで様々な角度から「人格」ということを考えてきました。もうネタが尽きるかと思いきや、考えても考えても尽きることがありません。今回も、人格ということをテーマに考えていきたいと思います。

 さて、前回の堪忍袋の話しも念頭に置きながら考えていきますが、まず「人格的である」ということは、内面の事柄を言葉で外に表現できること、というテーマで話しを進めていきたいと思います。

言葉と人格

 皆さんは、どのようなイメージを持つか分かりませんが、私にとって、人格者、成熟者というイメージは、言葉を整理して正しく相手に伝えることの出来る人が浮かびます。逆に、言葉で表現できない、感情的過ぎる人、心にある事と違った言葉を発する人、相手に通じない言葉を語る人は、人格者というイメージは持てません。

旧約聖書

 人格と言葉の関係は聖書に明確に記されています。

 「初めに、ことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」

(ヨハネ1章1節)

 言葉とは、その人の存在そのものなのです。人格の成長には、言葉の成長が伴います。生まれたばかりの赤ん坊は、言葉が話せません。しかし、泣くことによって、自分の思いを表現します。決して言葉がないわけではありません。それが成長に伴い、段々と、言葉で自分の思いを相手に伝えることが出来るようになります。言葉の成長と人格の成長は比例します。言葉は、言語能力という脳の機能の一部ではありません。言葉は、見たこと、聞いたこと、触れたこと、考えたこと、生の全ての営みに関わることです。
 言葉の表現が豊かであるということは、心が豊かであるということです。言葉が整理されているということは、心が整理されているということです。言葉に偽りがないということは、心に真実があるということです。言葉が愛情に満ちているなら、心に愛情が満ちているということです。言葉は、その存在を表すものなのです。人格が成長していくことは、言葉が成長することでもあります。
 人格が尊重され、成熟してくると、自分の内面にあることを、言葉で伝えることが出来るようになります。
 人格が抑圧されていると、言葉も同時に抑圧されています。ですから、人格が抑圧されていて言葉で表現することが出来ないと、別の形の言語表現が出てくるわけです。

子供の成長

泣く子

 例えば、身体言語と言われるように、身体の変化を通して自分の内面を表現しようとします。ストレスに伴うチック症状などは良い例です。今うちの一番下の子供がプレスクールに行き出しました。やはり初日は、何人か大声泣いて、お母さんにしがみついている子供がいます。うちの子供は、何ともあっさりと自分から「ママばいばい」と言って離れていきました。しかし案の定、一週間くらいたったある朝は、行きたくないと泣きました。子供なりに、相当に気を張っていたのが分かります。時がたって少しホッとしたのか、本音が出てきわけです。
 日本の場合、よく、泣かないでおとなしく保育園に行った子供の中で、五月頃になって、おねしょや軽いチック症状が出たりすることがあります。これは、泣くべき時に、我慢して泣かなかった事による、身体言語の一つです。行きたくないという思いを、泣いて表現した場合、適応は逆に早くなります。しかし、泣くのを我慢した場合、身体言語を通して心の思いを表現することになります。その場合も両親が、その表現をキャッチして、受け留めることが出来れば大丈夫ですが、見逃してしまったり、逆に叱ってしまうと後々やっかいなことになります。

 あるいは、行動言語というものもあります。自分の内面に溜まっていることを、何だかの原因で言葉で表現することが出来ない時、例えば赤ちゃんの場合、ある友人の二歳の子供は、両親が仲良くしている脇で、頭を壁にゴツンとぶつけるそうです。これは、お母さんを独占できない嫉妬から来た行動ですが、言葉で表現出来ないので、行動で表現したわけです。言葉が未発達の子供は、行動で言語表現することがしばしばあります。思春期になると、暴力的な行動や、自虐的な行動で、その思いを表現することがあります。昔の暴走族や、現代の社会問題になっているリストカットなど、心の抑圧された思いを行動で表現したものです。
 心の内にあるものを、外に表現する場合、身体の異常を通して表現するのも、否定的な行動で表現するのも、ないよりは良いと言えるのです。「夜回り先生」は、リストカットを繰り返す若者に向って、決してリストカットを止めさせることはしないと言っていました。もし止めてしまったら、次に心の内を表現する手段は、さらにエスカレートするしかないからです。

 前回、堪忍袋について考えましたが、心の内を表現することは、袋に溜まったものを外側に出すことになるのです。ですから、カウンセラーは基本的な事として、話を聴くのです。人は、言葉で表現しただけで、心の内に大きな変化を経験するものです。私たちは、心の内を外に表現することの大切さを認識したいものです。そして表現手段として、言葉を通して表現するということが、人間本来の表現方法であり、最も人格的であるということを覚えたいと思います。

子供にしゃべらそう

 子育ての中で、子供の言葉を引き出すということが、親としての大きな役割の一つとなります。

 まず子供に限らず自分自身も含めて、言葉で表現できない状況というのは、どのようにもたらされるのでしょうか。
 言葉でコミュニケーションを取ることを体験していないケース。これは親が言葉よりも手が出る。あるいは無視という虐待。
 言葉を発した時に、傷ついた経験を持っている。例えば発した言葉のゆえにひどい仕打ちを受けた結果、二度と話さないというケース。
 拒絶され、人格を否定された結果、自分を表現することを恐れるケース。
 間違った価値観を教えられたケース。例えば、言葉を押し殺し黙っていることが良い子、大人といった価値観。

親子の会話

親の愛

 さて、私たちは子供が言葉で自己表現することを励ましていきたいと思います。

 まず、言葉をほとんど話せない乳児の時期。この時、子供はほとんどの場合、身体言語、行動言語によって自己表現をしています。お腹がすけば泣く、欲しければ取ろうとする。その時に親は、まるで言葉を聴いているかのように接するのです。例えば、子供が笑ったとします。「そう、何が楽しいの?」あるいは、「むにゃむにゃ」言った時も、「そうなの、ふーん、そうか」とうなずきながら聴く態度で接するのです。そうすると子供は、言葉で自己表現することの喜びを体験することが出来るのです。
 もう少し成長して、一応言葉でコミュニケーションが取れるくらいになる、四、五歳以降。まだまだ満足な言葉の整理が出来ません。親は、実際に発している言葉と共に、その心を受け留るようにします。多くの場合、叱りたくなるような言葉を発したりするのもこの年頃です。しかし、親は、その心を聴いてあげて、正しい表現方法で言い方を変えて、応答してあげるのです。例えば、「おい、これ買ってくれ」などと、どこで覚えたのか、カチンと来るような言葉使いをすることがあります。その時に、その言葉のゆえに感情的になって怒ってしまうと、子供は言葉を使うことに恐れを持ってしまいます。むしろ言葉の間違いを教え、正しい言い方を教えてあげることです。特に学校に行き出すと、急に汚い言葉を覚えてくるものです。そんな時も、言葉で表現することを否定しないで、言葉の意味を理解させ、正しい言葉に置き換えてあげるわけです。

 さらに思春期に入ると、子供は急に無口になったりします。理由は一つではありません。親からの自立が進んでそうなっているのは良いことです。しかし、中には親に心を閉ざした結果、無口になっている場合もあります。親に「うるさい」と思っている子供が多くいます。日本の思春期の若者が親に一番発する言葉は「うるさい」です。この言葉の背後にある思いは、「親は話を聴いてくれない」「言葉を発すると怒られる」「本音を言うと、必ず損をする(怒られる)」といったものです。これは、思春期だからといって、決して持ってもよい思いでありません。

 子供が言葉で自己表現できるためには、まず聴くことです。聴いてくれる人がいるからこそ、話すのです。
 子供が話すようになるためには、親は聴き上手になることです。聴き上手は、質問上手です。相手が話しやすくなるために、話すきっかけを作ってあげるのです。

思春期

感情処理の方法

 感情は抑圧しても、爆発させてもいけません。ある心理学者が、「現代の若者は感情処理能力が乏しい」と指摘しています。どう処理していいか分からないのです。ですから抑圧と爆発を繰り返します。
 感情をそのまま表現してもよい場面もあります。特に肯定的な感情は、表現しやすいものです。スポーツを観戦して大声で興奮して応援するのも楽しいです。試験に合格して喜びの感情を爆発させるのも良いことです。

感情表現

 しかし問題は、否定的な感情です。これは事態の深刻さにもよりますが、そう簡単に誰にでも、何処ででも出せるわけではありません。子供が小さいうちは、否定的な感情でもそのまま出しても問題ありません。泣きたい時に泣ける、怒りたい時に怒る、これは子供が小さい時はとても重要な感情表現です。しかし、ある程度成長すると、そのようなわけにはいかなくなります。いくら感情は抑圧しないで、と言っても、だからといって感情的、感情主義になれというわけではありません。
 例えば、相手に悲しくなることを言われ、本当は泣きたくて仕方ないこともあります。しかし、急に泣き出して良い状況ではありません。そんな時に、言葉による感情処理能力を発揮するのです。「私は、あなたの言葉、態度で、本当に悲しい」と言葉で感情を表現するのです。
 あるいは、本当に頭に来るような事を言われた時、怒り、暴れるわけにはいきません。その時にも「私は、今のあなたの言葉で、とても気分を害しました。正直怒っています。」とやはり言葉で感情を表現するのです。
 そのまま感情を表現できるような状況であれば、感情を素直に表現することは良いことです。しかし、表現できない状況の場合、感情を言葉で処理する能力を身に着けていることは大きな助けになります。

言葉による解決が大事

引きこもり

言葉を引きこもらせない

 言葉が引きこもると、人格も引きこもります。以前言及した潜在的引きこもりにある人は、言葉を抑圧する人がほとんどです。要するに、本音が言えないわけですから。
 私は、小さい頃からよく喋る子供だったそうです。それは、兄と弟に挟まれた次男という立場上、自分の存在を常にアピールする必要があったのかもしれません。しかし、そんな自分も言葉を失った時期がありました。やはり思春期の頃です。今振り返ると、言葉に表現できるほど心が整理されていませんでした。整理するのを助けてくれる人も身近にいませんでした。ただもやもやして、重たくて、暗くて、そんな心の思いを、行動で表現していました。表現された方は、いい迷惑だったと思います。申し訳ないと思いますが、それしか自分を保つ手段はありませんでした。

 言葉を引きこもらせた一番の理由は、「聴いてくれる人がいない」ということです。誰も聴いていないのに喋るのは独り言です。今一生懸命に思い出してみても、心の叫びを聴いてくれた人、聴こうとしてくれた人は、一人も記憶にありません。かろうじて中学三年生の時の担任の先生が、心をかすめます。
 そんな自分が、言葉を取り戻したのは、初めて一九歳の時にコックとしてアメリカに来た時です。そこで導かれた教会では、私の存在を受け留め、私の言葉を喜んで、一生懸命に聴いてくれる人々がいました。私の心から言葉があふれ出しました。以来、私は喋りまくっています。
 人は、誰か一人でも聴いてくれる人がいると、生きることが出来ます。誰でも話したいのです。話したくてしかたないのです。
 そして誰よりも、いつも私たちの心に耳を傾けてくださる神がおられることを覚えたいと思います。

 聖書には次のように記されています。

 「民よ、どんな時にも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。」

(詩篇62編8節)

教会

 神は、私たちが心を注ぎ出すこと、ありのままを表現することを喜んでくださいます。またイエス様は次のように語られました。

 「わたしに何をして欲しいのか」

(ルカ18章41節)

 イエスはいつも、人の内から言葉を引き出そうとされました。それは、人格を回復させるためなのです。

 さて、子供に対しても、言葉を引き出してあげたいものです。そのためには、心を傾けて聴くことです。

 そして言葉で表現できることの喜びを体験させるのです。言葉が受け留められるということは、自分の存在が受け留められることと同じなのです。ですから相手は喜びを体験するのです。
 このような時代であるからこそ、言葉による感情処理能力を身につけることが、心に平安を保つ大きな助けになります。溜まっているものを神の御前に注ぎ出し、いつも軽やかに、爽やかに生きていきましょう。  
文:関 真士

喜びの体験

泉の会
  • 日時;木曜日  第一、第三、第五
    午前10時~
  • 会場;アルファ・ハウス
    (マノア・マーケットプレイスの近く)
    2832 Lowrey ave Honolulu、HI 96822
  • 連絡;関 真士 TEL988-4314

★どなたでも、ご自由にご参加出来ます。