![]() | |||
心を大切に(夫婦12)
| |||
| 1 | Will - 意志・行動 | drive - | Mind - 知識 | drive - | Heart 心 |
| 2 | Heart - 心 | drive - | Mind - 知識 | drive - | Will 意志・行動 |
多くの場合、私たちは@の行動パターンで動いています。
| |||
|
@のパターンでは、まず何をするべきかという意志・行動があり、次にそれを実行するための知識があり、そして最後に心があります。 例えば、「私は男らしくあるべきだ、だから男らしさとは何かを学ぼう、そうしたらもっと充実した平安な人生を持てるだろう。」あるいは「あなたは医者になるべきだ。そのためにはこのような知識が必要だ。そうすれば幸せになれる。」
このパターンは、まずあるべき状態や、行動するべきことが最初にあり、それに則った知識が必要とされ、最後に感情が生じてくるというものです。これは、人間の意志行動を最も重要な位置に置く考え方です。一見すると普通のことで、よくあることです。ただ、そのために感情つまり心の部分を最後に置くことになります。 |
| ||
|
この行動パターンは、すなわち日本の社会構造でもあります。「こうあるべきだ」という対外的、形式的なものが重んじられます。あるいは戦後経済成長の中では、物質的な豊かさを第一として、その達成のための知識を求め、最後に心があるというのが社会全体の構造でした。しかし、実際には物質的な豊かさは、心の豊かさにはつながりませんでした。そして人間は、心を持たない機械のように扱われ、会社人間とか、会社の歯車とか言われるようになったわけです。 このパターンは、普段当たり前のようにあることですが、実は、聖書が教える行動パターンとは全く正反対のです。 もし、この@のパターンが本来神が造られた人間の生き方であるなら、それに則って生きていれば平安であるわけです。しかし、これは神の方法とは違うパターンなのです。ですから、このパターンで生きていくと、本来の人間の生き方とは違うものですから、そこにギャップが生じてきます。@のようなパターンを押し通して来た結果として、心が取り残されてしまったのが、現在の日本の姿です。 | |||
|
|
このパターンを基本に子供を育てようとするならば、常に、「Will 意志・行動」に注目がいくようになります。なぜなら、この部分が知識も感情もコントロールする一番の行動原理であり、この部分を変えれば、全てが変わると考えているからです。行動が良ければ良い子である。行動が良ければ心も良くなる、ということです。このパターンを元にしていると、次のようなセリフが多くなります。 「あなたは、何を考えているのか? (Thinkinng―Mind)」
「なぜ、こんなことをするのか? (Doing―Will)」
| ||
|
子供は小さければ小さいほど、自分がなぜ、このような行動をしているのか分かりません。自分の行動分析など大人でさえ難しいものです。食べ物を散らかしてしまう子供に「なぜ、散らかすの!」 何度も同じことを繰り返す子供に「なぜ何度言っても分からないの!」 言うことをきかない子供に「なにを考えているの!」と、その注目は、目の前に起こっている行動に向けられます。 もし、子供の行動を良くすることが、子供を良い子にすることだという考え方であるならば、良い行動をしていれば良い子であると判断します。そこから心が伴わない良い子が生み出されてきたわけです。この誤解が、良い子の問題行動として現れています。もし@の行動パターンが正しいのであれば、良い行動をする子は、良い心を持っているはずです。しかし、現実はそうではありません。順序は実は逆で、良い心が、真に良い行動の子を生み出すのです。実際には、心が知識と行動をコントロールしているのです。 | |||
|
昔、小学五年生の頃に掃除の時間がありました。友達と野球のバットを振る真似をしながら箒を振り回していたら、手からすっぽ抜けてしまいました。今でも鮮明にスローモーションでその様子が頭に浮かびます。箒が窓ガラスに向って飛んでいき見事に割ってしまいました。さっそく職員室に呼ばれたわけですが、先生が「どうしてこんなことをしたのか?」と言います。 「野球の真似をしていたら手から箒がすっぽ抜けた」と答えるわけですが、さらに「なぜ掃除の時間に野球の真似などしたんだ」と突っ込まれます。そうすると、答えられなくなるのです。そこで自己の心理分析など出来るわけもなく、ただ先生の前に立たされて黙ってしまうしかないのです。今思い出すと、職員室で先生の前に立たされる時、決まって「どうして? なぜ?」と問われるのですが、それらは全て行動に対する問い掛けであって、いつも答えられなかったのを思い出します。
|
| ||
|
|
子供にとって「どうして、こんなことをしたのか?」との問いほど、混乱する問い掛けはないと言います。小学五年生でもそうですから、例えば、お風呂に入りたがらない三歳の子供に「どうして、お風呂に入らないのか?」と言ってみたり、五歳の子供に「どうして妹と仲良く出来ないの?」と言っても、おそらく親を満足させる答えは返ってこないでしょう。
しばしば、子供が親の叱責に黙ってしまうことがあります。それを反抗と捉える場合もあります。しかし、それは反抗しているのではなく、答えられないのです。そして、そのような答えようのない問い掛けを叱責や感情を伴いながらぶつけられると、子供の心に怒りが生じます。その感情が表情に出れば、明らかな反抗とされ、ますます叱責されてしまいます。まさに悪循環です。
実際には、人間の行動は、その心から生じているのです。それなのに行動のみに問題の原因を求めることに無理があるわけです。 @のパターンは、実際の人間の行動パターンではありません。それは事実が証明しています。むしろAの方が実際の人間の行動パターンなのです。 | ||
| 実際には、Aの行動パターンによって人間は動いているのです。
「人間は感情の生き物」であると言われますが、実際に人間を動かしているのは、心です。
| |||
|
Aのパターンで物事を理解すると次のようになります。例えば「私は医者になりたい。だからそのための知識が必要だ。よし医学部を目指して勉強しよう。」あるいは「あなたは野球が好きなんだね。それならいいチームがあるよ。よしそのチームに入ろう。」というように、まず心から始まって、知識、行動へと発展していくのです。 ということは、まず心がどうであるかが最も大切なこととして問われて来ることになります。悪い行動は、悪い心から生じてきます。良い行動は、良い心から生じてきます。心に、その行動原理があるなら、その部分にもっと注目しなければなりません。 |
| ||
|
子供を育てる場合、このことを理解しているとセリフが変わってきます。「どうしてお風呂に入らないの?」から「どうしてお風呂に入りたくないの?」つまり、「入らない」という行動から「入りたくない」という感情・心に関心を向けているのです。「どうして仲良く出来ないの?」から「どうして仲良くしたくないの?」もっと噛み砕いて「今、どんな気持ち? 妹のことぶった時、どんな気持ちだった?」などと状況に合わせて問い掛けていくことが出来るでしょう。 行動に問いかけるのか、心に問いかけるのか、どちらに関心を向けているかで、問い掛け方が随分と違ってきます。 そこで次のことが言えるでしょう。 「行動が変わっても、心は変わらない」 「心が変われば、行動も変わる。 | |||
|
|
もし子供に問題行動があるなら、その行動に注目して行動を正そうとするより、行動の元になっている心に注目して、心に焦点を向けていくことが大切です。 ですから、私たちは、子供と接する時に(これは子供に限りませんが)、その行動の元になっている心に目を向けるようにしていきたいものです。
うちの庭にトマトの木がなっています。ものすごく強くて、何度も枝を切っているのですが次から次へとなっていきます。もし、トマトではなくリンゴの実が欲しいと思うなら、いくらトマトの実をとっても永久にリンゴの実はなりません。根っこから抜いて、リンゴの木を植え直さなければなりません。行動から変えようとすることは、表面に見える実をとって、別の実がなることを期待することです。行動を変えるためには、実ではなく、根を変えなければなりません。根は心です。 | ||
|
「心を聴く」という言葉がありますが、人間関係の中で、親子ももちろんですが、目の前にある行動や言動だけを問題にしていると本質が見えなくなります。心で何を叫んでいるのか? 心が何を訴えているのか? リストカットを止められない子に、命の大切さ、自殺の悪いことなど教えても効果はありません。それは行動のみに焦点を当てているからです。むしろ、なぜそのような行為に走るのか? その元になっている心の叫びを聴こうしなければなりません。そして心が理解され、その上で受け入れられていると知る時、行動も変わります。ある摂食障害の子供は、いつも母親の愛を求めていました。ある時、母親の何気ない一言「あなた最近痩せたわね」という言葉が心を捉えました。そうか、やせたらお母さんが心配してくれるのか。それ以来食事をとらずに痩せるようになりました。娘が食事をしないのを見て母親は「食べなさい」を繰り返します。心叫びを聴かれない娘は、聴いてもらおうともっと食べなくなります。これも悪循環です。 |
| ||
|
|
行動が知識も心もコントロールしていると考えると、行動を変えればそれで良しとします。しかし、人間は心で動いているのです。
赤ん坊はよく泣きます。その泣くという行動よりも、泣いている原因を探すのが普通です。しかし、泣くという行動のみに焦点をあてて、うるさい、なんで泣きやまないのかと、泣くこと自体に焦点を当てると、泣いている原因が満たされないのですから、赤ん坊はもっと泣くようになります。この構造は大人も変わりありません。誰でも、心を聴いてもらい、理解され、受け入れられて初めてホッとできるのです。行動のみに焦点を当てられ、心がおいてきぼりにされると、大人も泣くのです。 | ||
| まず心から
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第一サムエル一六章七節)と聖書にあります。 | |||
|
|
神は、私たちの心をまず第一に見てくださいます。もちろん意志・行動は大切です。これがなければ何も成しえません。問題は優先順位なのです。しばしば表面に見える姿と、心が正反対のことがあります。気の小さい人に限って、自分を強く見せようとします。見た目に強面でいかにも威圧感を漂わせている人が、実際にはとても臆病で小心者であることがあります。逆に、見た目には気弱そうで、頼りなさそうな人が、意外と危機的状況においてはどっしりと構えていたりします。見た目と心が同じである人は、以外と少ないように思います。 神が私たちの心を見るというのは、私たちの本当の姿を見ていてくださるということです。ですから、神の御前で、自分を強く、大きく、美しく見せる必要はありません。人は確かにうわべで判断するものです。だからうわべを良くしようとします。しかし、神は心を見られます。 そして、神は私たちの心がどのようであっても、まず心を聴いてくださるお方のです。そして、心にタッチして、心を満たし、心を変えてくださるのです。
| ||
|
聖書のヨハネの第一の手紙四章一九節に 「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」
と記されています。これは、愛するという行動が生じているのは、まず愛されたからだ、ということなのです。これが神の方法と順序なのです。逆は次のようです。愛さなければならない、では愛とは何か、そして愛が生じる、です。この方法では、いつまでたっても、愛は生まれません。 |
| ||
|
|
さらに同じヨハネの手紙の三章一六節には次のように記されています。 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
キリストが私たちのために命を捨ててくださった―――Heart
まず神は、私たちに行動を求める前に、私たちの心を満たしてくださるのです。ガソリンの入っていない車を動かそうと思っても動きません。まずガソリンを入れなければなりません。神は、私たちに良い行動をすることを求めていますが、まず私たちの心のタンクを良いもので満杯にしてくださるのです。 | ||
|
神は、私たちの心を大切にしてしてくださっています。だからまず心を満たしてくださるのです。もし心に傷があれば癒してくださり、弱さがあれば強めてくださいます。 私たち親自身が、自分の心が大切にされることを体験すると、自然に子供の心をも大切にするようになります。私たちはは誰一人として、完璧に良い感情・心を持っているわけではありません。しかし、そのような不完全な心を見て、だからこそ、神は愛を注いでくださるのです。神の愛で心を満杯にしてくださるのです。 文:関 真士
| |||
|
|